日曜日の朝、何気なく開いた朝日新聞(2012.7.1)の「読書」欄に掲載されていた書評が目に留まった。『時の余白に』(みすず書房)という本のタイトルが私に何かを訴えているような気がしたのである。現役を退いてから自分が自由に使える時間はたっぷりあるはずなのに、それを「余白」と感じたことはなかった。自分に残された時間は少ない。その時間は何か意味のあることに使わなくてはいけない。そんな脅迫観念のようなものにとらわれていた私にとって、暇な時間を持て余すことはあっても、それは何らかの行為で埋め尽くさなくてはならないものだった。
加えて、このところ政治の動きから片時も目が離せない日々が続いている。とりわけ、大飯原発の再稼働、消費税増税、検察官による取り調べ報告書ねつ造、米軍基地へのオスプレイ配備など、国民の生存や生活を脅かしかねない重大な問題にたいして発言し行動する人々。そんな動きを無視するかのように次々と下される政府の理不尽な決定や対応に怒りを感じ、国民の声が政治に反映されない、膠着したシステムにもどかしい思いがつのる。いま何かしなくてはいけない。
書評を読んだ。哲学者で大阪大学の総長もつとめられた鷲田清一さん(大谷大学教授)の短い文章は、定年を前にした新聞記者がつづった美術批評の世界へと導いてくれる。「いまはそんな現下の問題とは無縁のことを悠長に考えているときじゃないだろう。現実から目をそむけてはいけない」と一人の私がいう。「いや、待ちたまえ。そんな今だからこそ、見つめ直さなくてはならない、とても大切なことが書いてある」と、もう一人の私。そして、そこには、深い息をし、丹田に力が漲り、ガチガチになった頭がすっと軽くなっている自分がいた。
以下は、その書評である。
骨太の主張 謙虚な語り口で
美術へのまなざしにはもっと広がりがあってよいとおもう。「芸術的価値」の高い作品を前にしてかしこまるのも結構だ。地域や施設でのワークショップという、生活意識の傍らにアートを溶かし込むというのも大きな意味があろう。けれども美術が、社会の趨勢(すうせい)にひっかかりを感じて、どうしても譲れないところがあるという、距(へだ)たりの感覚を失ったら、それはもう財宝か商品でしかなくなる。
この本には、読売新聞で月1回連載されてきた長めの美術コラムが収められている。いずれも日々のくらしのなかでふと感じた違和から書き起こし、そういえばこんな展覧会があった……というふうに、人びとのまなざしを、時代からしずかに身を退(ひ)く美術家、独立独歩を貫く作家の仕事のほうへ案内する、そんな構成になっている。
定年を前にして仲間が用意してくれた、この、紙面の番外地とでもいうべき場所で、のほほんとした語り口で、じつに骨太の主張をしている。いまの新聞がややもすれば見失いがちな「冷静」と「歯止め」を、この一身でつないでおこうという使命感が、です・ます調の謙虚な語り口に滲(にじ)みでている。「漫然と全体に向き合うこと」が許されない現下の社会では、「『ついていく』だの『取り残される』だのは、さっさと卒業することです」。「どうぞ深呼吸を」というふうに。
著者が抑えた声で口にする違和感の断片を星座のようにつないでゆくと、熊谷守一や池田龍雄、早川俊二、谷川晃一らちょっと地味な作家にこと寄せた、著者の矜持(きょうじ)が浮かび上がってくる。身の丈、落ち着き、思慮深さ、待つこと、削(そ)ぎ落とすことといった、人の〈品位〉とでも言うべきものだ。この退きのなかにこそ「感覚をとぎすます道場」があると言わんばかりに。
読みすすむうち、不思議なことに、こちらの息もすこしずつ整っていった。
(以上、時の余白に 芥川喜好〈著〉:朝日新聞デジタルより)
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