ウェイの陥落から6年目の夏、ローマ人たちが予想もしてなかった事態が起きました。
アルプスの南麓に住む、ケルト人の大軍が突如として南下を始めたのです。エトルリアの諸都市が次々と侵略され、ついにローマの国境にまで迫りました。
元々彼らはアルプス以北の森林地帯に棲んでいたのですが、水が染み出すように次第に南側にも増えていました。
しかしローマ人にとってはほとんど脅威ではありませんでした。
それは、間にエトルリアの強力な防衛ラインがあったため、勇猛さで知られたケルト人もそれより南下することはできなかったからです。言って見ればエトルリアはローマのとって防波堤でした。
それを自ら叩き壊してしまっていたのです。
「森の蛮族現る」の知らせにローマ市民はパニックになりました。
現代の我々にとってケルトのイメージは、エンヤをはじめとする、神秘的でノスタルジックな音楽、いたずら好きな妖精たちの物語、また、アーサー王伝説からナルニア国物語にまでつながる、ファンタジーなど、メルヘンティックにふちどられています。
しかしローマ人にとってはそれどころではありませんでした。
古代ケルト人について書きます。
中央アジアの草原地帯にいた彼らが、馬に引かせた2輪の戦車(chariot)に乗り、鋭利な鉄製の武器をもって中央ヨーロッパに来たのは紀元前1000年ごろと言われています。気候の悪化が原因だったようです。
ローマ人からは、ケルトと同じ語源ですが、ガリア人と、その居住地をガリアの地と呼ばれていました。
部族ごとに散居し、各地で狩猟、焼畑農耕などでで生計をたてながら領土は持たず、広い森林地帯を移動しながら暮らしていました。
ちなみに、今のヨーロッパはなだらかな丘陵にひろがる、牧場や、小麦畑を想像しますが、そのように「明るく」なったのは中世以降、冶金技術の改良によって大量に出回るようになった鉄製農耕器具によって森林が開墾されたからであって、以前は樫(オーク)やブナなどの大木におおわれた、鬱蒼とした「暗い」森でした。
部族長会議によって、ゆるやかな横のつながりはあったものの、基本的にはそれぞれ独立し、広域な国家は形成しませんでした。この「非組織性」が後にローマ(シーザー)に征服され、ゲルマン人に駆逐される原因になります。
彼らの社会はドルイド僧と騎士からなる支配階級とそれに隷属する平民から成っていました。
ドルイド僧とはケルト独自の宗教の僧侶で、樫の木の賢者を意味します。
シーザーの<ガリア戦記>によれば、「ドルイド僧が第一に人を説得したいと思っていることは、魂は決して滅びず、死後、一つの肉体から他の肉体へ移るという教えである。この信念こそガリア人をして死の恐怖を忘れさせ、武勇へと駆り立てる、最大の要因と考えている。」そうです。
仏教の輪廻転生思想に似ていますが、仏教には転生を繰り返すうちに動物から人間へ、人間から仏へ完成にいたる、というある種の差別性があるのに対し、ドルイド教にはそのような人間と動物を分ける発想はありません。
人間を頂点にしたピラミッド型の世界観を持つキリスト教とは対極にある宗教といえます。
教義は文字にすると魔力が失われるとされ、子供のときから学校で習うのですが、その膨大な韻文を暗記するために20年以上もかかる人もいたそうです。
性格は旅行家ストラボによると、男性は争いごとを好み、論争好きで、情熱的で興奮しやすい、女性は母性型で多産だったそうです。ギリシャの歴史家ディオドロスによれば「うぬぼれが強く、威嚇的」だそうです。
ガリア人の普段の服装は、羊毛製のマントをはおり、チェック柄のズボンをはき、精巧な彫刻をほどこしたバックルでベルトをとめていました。
女性は指輪をし、首や腕には黄金製のアクセサリーをつけ、指には今でいうマニキュアを塗り、ほほに植物から作った染料で赤く染めていたようです。
トーガといわれる風呂敷のような布を巻きつけていたローマ人よりも機能的で現代的です。
しかし戦闘時には凄いことになります。
ディオドロスによると、「戦士たちは髪の毛を逆立てて、裸に金の首輪と腕飾りをしていた。さらに戦闘時には像や角をのせた青銅製の兜をかぶったために彼らは非常に背が高くみえた。」そうです。
またローマの歴史家タキトゥスによれば、「ローマ軍と対峙したケルトの戦士がいならぶ姿はまるで武器の砦のようであり、女性たちは黒髪をふりみだし、金きり声をあげて叫ぶ姿は鬼女のようであった。」らしいです。
彼らは長身、筋肉質で、金髪か、そうでない場合には人工的に脱色してきんぱつにし、それを逆立てて固め、青い染料を顔に塗り、上半身裸でつまり、一時期のヴィジュアル系のバンドのような格好で狂ったように叫びながら突進しました。
それだけでもローマ人にとっては恐怖ですが、彼らのイメージをさらに不気味にしていたのは、首狩りの風習です。
ニューギニアなどの首狩り族も同じですが、彼らは人頭には魔力があり、その所有者に超自然的な力を与える、と信じていました。
そのため、戦いで殺した相手の頭部を切りはずして持ち帰り、自宅にならべて飾っていました。
しかしローマ人からそんな信仰が理解できるはずもなく、野蛮人として恐れられました。
アルプスの南麓に住む、ケルト人の大軍が突如として南下を始めたのです。エトルリアの諸都市が次々と侵略され、ついにローマの国境にまで迫りました。
元々彼らはアルプス以北の森林地帯に棲んでいたのですが、水が染み出すように次第に南側にも増えていました。
しかしローマ人にとってはほとんど脅威ではありませんでした。
それは、間にエトルリアの強力な防衛ラインがあったため、勇猛さで知られたケルト人もそれより南下することはできなかったからです。言って見ればエトルリアはローマのとって防波堤でした。
それを自ら叩き壊してしまっていたのです。
「森の蛮族現る」の知らせにローマ市民はパニックになりました。
現代の我々にとってケルトのイメージは、エンヤをはじめとする、神秘的でノスタルジックな音楽、いたずら好きな妖精たちの物語、また、アーサー王伝説からナルニア国物語にまでつながる、ファンタジーなど、メルヘンティックにふちどられています。
しかしローマ人にとってはそれどころではありませんでした。
古代ケルト人について書きます。
中央アジアの草原地帯にいた彼らが、馬に引かせた2輪の戦車(chariot)に乗り、鋭利な鉄製の武器をもって中央ヨーロッパに来たのは紀元前1000年ごろと言われています。気候の悪化が原因だったようです。
ローマ人からは、ケルトと同じ語源ですが、ガリア人と、その居住地をガリアの地と呼ばれていました。
部族ごとに散居し、各地で狩猟、焼畑農耕などでで生計をたてながら領土は持たず、広い森林地帯を移動しながら暮らしていました。
ちなみに、今のヨーロッパはなだらかな丘陵にひろがる、牧場や、小麦畑を想像しますが、そのように「明るく」なったのは中世以降、冶金技術の改良によって大量に出回るようになった鉄製農耕器具によって森林が開墾されたからであって、以前は樫(オーク)やブナなどの大木におおわれた、鬱蒼とした「暗い」森でした。
部族長会議によって、ゆるやかな横のつながりはあったものの、基本的にはそれぞれ独立し、広域な国家は形成しませんでした。この「非組織性」が後にローマ(シーザー)に征服され、ゲルマン人に駆逐される原因になります。
彼らの社会はドルイド僧と騎士からなる支配階級とそれに隷属する平民から成っていました。
ドルイド僧とはケルト独自の宗教の僧侶で、樫の木の賢者を意味します。
シーザーの<ガリア戦記>によれば、「ドルイド僧が第一に人を説得したいと思っていることは、魂は決して滅びず、死後、一つの肉体から他の肉体へ移るという教えである。この信念こそガリア人をして死の恐怖を忘れさせ、武勇へと駆り立てる、最大の要因と考えている。」そうです。
仏教の輪廻転生思想に似ていますが、仏教には転生を繰り返すうちに動物から人間へ、人間から仏へ完成にいたる、というある種の差別性があるのに対し、ドルイド教にはそのような人間と動物を分ける発想はありません。
人間を頂点にしたピラミッド型の世界観を持つキリスト教とは対極にある宗教といえます。
教義は文字にすると魔力が失われるとされ、子供のときから学校で習うのですが、その膨大な韻文を暗記するために20年以上もかかる人もいたそうです。
性格は旅行家ストラボによると、男性は争いごとを好み、論争好きで、情熱的で興奮しやすい、女性は母性型で多産だったそうです。ギリシャの歴史家ディオドロスによれば「うぬぼれが強く、威嚇的」だそうです。
ガリア人の普段の服装は、羊毛製のマントをはおり、チェック柄のズボンをはき、精巧な彫刻をほどこしたバックルでベルトをとめていました。
女性は指輪をし、首や腕には黄金製のアクセサリーをつけ、指には今でいうマニキュアを塗り、ほほに植物から作った染料で赤く染めていたようです。
トーガといわれる風呂敷のような布を巻きつけていたローマ人よりも機能的で現代的です。
しかし戦闘時には凄いことになります。
ディオドロスによると、「戦士たちは髪の毛を逆立てて、裸に金の首輪と腕飾りをしていた。さらに戦闘時には像や角をのせた青銅製の兜をかぶったために彼らは非常に背が高くみえた。」そうです。
またローマの歴史家タキトゥスによれば、「ローマ軍と対峙したケルトの戦士がいならぶ姿はまるで武器の砦のようであり、女性たちは黒髪をふりみだし、金きり声をあげて叫ぶ姿は鬼女のようであった。」らしいです。
彼らは長身、筋肉質で、金髪か、そうでない場合には人工的に脱色してきんぱつにし、それを逆立てて固め、青い染料を顔に塗り、上半身裸でつまり、一時期のヴィジュアル系のバンドのような格好で狂ったように叫びながら突進しました。
それだけでもローマ人にとっては恐怖ですが、彼らのイメージをさらに不気味にしていたのは、首狩りの風習です。
ニューギニアなどの首狩り族も同じですが、彼らは人頭には魔力があり、その所有者に超自然的な力を与える、と信じていました。
そのため、戦いで殺した相手の頭部を切りはずして持ち帰り、自宅にならべて飾っていました。
しかしローマ人からそんな信仰が理解できるはずもなく、野蛮人として恐れられました。
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