どうでもいいことですが、星の王子様の謎解き、正直言っていっぱいいっぱいです。
続き。
「花との仲がこじれたことが原因で王子様は旅たち、きつねとの交流によって何かを学び、あるいは思い出し、<ぼく>と共に井戸を見つける」
これがこの物語の中心軸だと思います。
王子様は6歳のころの<ぼく>であり、<ぼく>のこころを構成する一つの(一人の)要素であり、今は独立して行動する一人の人格である存在です。
王子様が経験したことは、つまり<ぼく>が経験したことでもあるのです。
逆に言えば<ぼく>が現実世界で経験したことのこころの中のイメージが王子様の物語、とゆうことです。
恋愛は大人が子供のこころでするものです。恥ずかしいので詳しくは説明しませんが。
王子様は<ぼく>の恋愛を受け持っていた、こころの部分だとおもいます。
もちろん、恋愛だけでなく、音楽を楽しんだり、友達と馬鹿騒ぎすることなども担当だったと思います。
この辺の見解は内観法的観察によるものです。
「星の王子様」がサンテグジュペリの実体験に基づいた物語であるなら、<ぼく>はサンテグジュペリと何十パーセントかシンクロした人物のはずです。
ということは、花は彼のエキセントリックな妻、コンヌエロに違いありません。
ちなみに、サンテグジュペリが貴族の中でも高位の伯爵家の出であることを思えば、なぜ王子様が普通の子供でなく、王子様の格好をしているのか分ります。
物語には書かれてませんが、<ぼく>はこの事故の近い過去に恋人との仲がこじれ、喧嘩別れのような状態になっているんじゃないでしょうか。
そして不時着し、<ぼく>の表面的な意識の部分はこの生死に関わる問題に、現実的に対処しようとしているが、無意識の世界では彼女とのことでが気になってしょうがない。
この心の分裂によって、王子様は<ぼく>から飛び出してきたのだと思います。
ではきつねは何者でしょう?
これが1番の難問でした。
きつねは特別な存在です。まるで王子様の全てを見抜き、導く禅マスターのようです。
単に「賢者」の象徴だとすれば、ふくろうや猿のほうがふさわしいはずです。
きつねは賢いと言うよりも、ずる賢いイメージです。
この物語の中からは結局分りませんでした。
しかし、サンテグジュペリの生涯にまで視野を広げれば答えが見えてきます。
彼にとってジュビー岬での日々は「生涯で最も幸せな日々だった」と回想しているように、とても思い出深いものです。そして砂漠についてのイメージもここで培われました。
インターネットで調べたところによると、西サハラのジュビー岬には今でもスナギツネと呼ばれるきつねが多く棲んでいるようです。サンテグジュペリがそこにいたころはもっと数が多かったそうです。
彼のなかで砂漠ときつねが結びついていたとしても不思議じゃありません。
きつねとは砂漠の象徴だと思うのです。
つまり、砂漠に不時着してから、<ぼく>が機体の修理にいそしんでいる間、王子様は愛の問題について砂漠と会話していた、それがきつねのエピソードだと思います。
しかし砂漠と会話するとはどうゆうことか、砂漠は何かがあるのではなく、なにもない場所です。
そこで会話するということは、結局自分自身と会話し、自分の奥深くに沈み込んでゆく、と言うことです
そして最も深い場所で答えをみつけた。
一つの問題に解決の道筋をみつけた王子様は、もう一つの、生死と言う問題に<ぼく>と一緒に対処します。
花との問題が人と人との問題だとすれば、こんどは人と自然、拡大解釈すれば人と世界との問題です。
この世界は敵か味方か?
なぜ一晩歩いたくらいで井戸を見つけられたのか?
偶然ではありえません。
井戸を見つけたのは明け方ですが、奇跡はすでにその夜のうちに起きていたとおもいます。
井戸はその奇跡の結果、あるいは反射によって夜のうちに穴が開き、石が積みあがり、滑車と桶が現れた。
<ぼく>は砂漠を見て「美しい」と言った。
王子様が傍らにいなければ出なかった言葉だと思いますが、それは奇跡だった。
なぜならそれは自分に死をもたらす風景だからです。
<ぼく>は自分の利害に関係なく、この世界を肯定した。
その無条件の肯定、それがこの世界という名の砂漠の井戸なんじゃないでしょうか?
もちろん、僕自身はそんな心境に達したことはありません。想像で言ってるだけです。
「すべての美しいものは何かを隠している」
このセリフはこの物語自身をも表現している。と思います。
これまで謎解きをしてきましたが、まだ、大切な何かが隠れている、と感じます。
何か、サンテグジュペリの人類に対する祈りのようなものを感じるのです。
続き。
「花との仲がこじれたことが原因で王子様は旅たち、きつねとの交流によって何かを学び、あるいは思い出し、<ぼく>と共に井戸を見つける」
これがこの物語の中心軸だと思います。
王子様は6歳のころの<ぼく>であり、<ぼく>のこころを構成する一つの(一人の)要素であり、今は独立して行動する一人の人格である存在です。
王子様が経験したことは、つまり<ぼく>が経験したことでもあるのです。
逆に言えば<ぼく>が現実世界で経験したことのこころの中のイメージが王子様の物語、とゆうことです。
恋愛は大人が子供のこころでするものです。恥ずかしいので詳しくは説明しませんが。
王子様は<ぼく>の恋愛を受け持っていた、こころの部分だとおもいます。
もちろん、恋愛だけでなく、音楽を楽しんだり、友達と馬鹿騒ぎすることなども担当だったと思います。
この辺の見解は内観法的観察によるものです。
「星の王子様」がサンテグジュペリの実体験に基づいた物語であるなら、<ぼく>はサンテグジュペリと何十パーセントかシンクロした人物のはずです。
ということは、花は彼のエキセントリックな妻、コンヌエロに違いありません。
ちなみに、サンテグジュペリが貴族の中でも高位の伯爵家の出であることを思えば、なぜ王子様が普通の子供でなく、王子様の格好をしているのか分ります。
物語には書かれてませんが、<ぼく>はこの事故の近い過去に恋人との仲がこじれ、喧嘩別れのような状態になっているんじゃないでしょうか。
そして不時着し、<ぼく>の表面的な意識の部分はこの生死に関わる問題に、現実的に対処しようとしているが、無意識の世界では彼女とのことでが気になってしょうがない。
この心の分裂によって、王子様は<ぼく>から飛び出してきたのだと思います。
ではきつねは何者でしょう?
これが1番の難問でした。
きつねは特別な存在です。まるで王子様の全てを見抜き、導く禅マスターのようです。
単に「賢者」の象徴だとすれば、ふくろうや猿のほうがふさわしいはずです。
きつねは賢いと言うよりも、ずる賢いイメージです。
この物語の中からは結局分りませんでした。
しかし、サンテグジュペリの生涯にまで視野を広げれば答えが見えてきます。
彼にとってジュビー岬での日々は「生涯で最も幸せな日々だった」と回想しているように、とても思い出深いものです。そして砂漠についてのイメージもここで培われました。
インターネットで調べたところによると、西サハラのジュビー岬には今でもスナギツネと呼ばれるきつねが多く棲んでいるようです。サンテグジュペリがそこにいたころはもっと数が多かったそうです。
彼のなかで砂漠ときつねが結びついていたとしても不思議じゃありません。
きつねとは砂漠の象徴だと思うのです。
つまり、砂漠に不時着してから、<ぼく>が機体の修理にいそしんでいる間、王子様は愛の問題について砂漠と会話していた、それがきつねのエピソードだと思います。
しかし砂漠と会話するとはどうゆうことか、砂漠は何かがあるのではなく、なにもない場所です。
そこで会話するということは、結局自分自身と会話し、自分の奥深くに沈み込んでゆく、と言うことです
そして最も深い場所で答えをみつけた。
一つの問題に解決の道筋をみつけた王子様は、もう一つの、生死と言う問題に<ぼく>と一緒に対処します。
花との問題が人と人との問題だとすれば、こんどは人と自然、拡大解釈すれば人と世界との問題です。
この世界は敵か味方か?
なぜ一晩歩いたくらいで井戸を見つけられたのか?
偶然ではありえません。
井戸を見つけたのは明け方ですが、奇跡はすでにその夜のうちに起きていたとおもいます。
井戸はその奇跡の結果、あるいは反射によって夜のうちに穴が開き、石が積みあがり、滑車と桶が現れた。
<ぼく>は砂漠を見て「美しい」と言った。
王子様が傍らにいなければ出なかった言葉だと思いますが、それは奇跡だった。
なぜならそれは自分に死をもたらす風景だからです。
<ぼく>は自分の利害に関係なく、この世界を肯定した。
その無条件の肯定、それがこの世界という名の砂漠の井戸なんじゃないでしょうか?
もちろん、僕自身はそんな心境に達したことはありません。想像で言ってるだけです。
「すべての美しいものは何かを隠している」
このセリフはこの物語自身をも表現している。と思います。
これまで謎解きをしてきましたが、まだ、大切な何かが隠れている、と感じます。
何か、サンテグジュペリの人類に対する祈りのようなものを感じるのです。
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