echo garden

基本的に読書感想文です。

ローマから日本が見える 10

2006-02-11 03:15:39 | Weblog
 コンコルディア神殿

 ケルト・ショックから20年ほどで、一定の復興を遂げたローマ人は問題の根本的な解決に乗り出しました。
 つまり、今回の事態をまねいた、最大の原因を直視すれば、それは貴族と平民の分裂にあります。
 平民のリキニウスが提出した法案が成立しました。その内容は驚くべきものでした。
 ローマの全ての官職を平民に開放したのです。たとえば、2人いる執政官のうち一人は平民出身にする、という形式的な平等ではなく、能力さえあれば出自を一切問わない、としました。
 いわば、チャンスを開放したのです。そのことによって、貴族と平民の壁がずいぶん低くなりました。
 さらにリキニウス法の数年後には、貴族の牙城である元老院まで改革が及びます。
 重要な官職を経験したものならば、平民でも元老院議員になれるようになったのです。たとえ平民の代表者である護民官でもです。
 これによって「壁」はさらに低くなり、また元老院の人材のプールとしての機能も高まりました。
 これらの改革により、はじめて共和制は完成し、1世紀にわたった貴族と平民の対立は解決にむかいました。
 
 このころ、ローマの中心であるフォロ・ロマーノに新しく神殿が建てられました。
 コンコルディア神殿です。
 コンコルディアとは「融和・一致・調和」を意味する言葉です。
 日本にも八百万の神々がいますが、さすがに概念を御神体にまつる神社はありません。
 一連の改革がいかにローマ人にとって喜ばしいことだったか、この一事でもわかります。
 それから一世紀後、ローマはイタリア半島の統一に成功しました。
 アレクサンダーのような軍事的天才が現れたわけでもないのに、廃墟の状態から僅か一世紀でイタリアの覇者にまでのぼりつめることができたのは、コンコルディアの精神がローマの潜在能力を最大限にまで引き出したからにほかなりません。

 まとめ

 ここぐらいまでがローマの「少年期」です。
 物語でいえば、やっとプロローグが終わった辺りですが、僕はここで止めます。
 というのはここから先はポエニ戦争でのハンニバルとスキピオとの対決や、シーザーのガリア遠征、クレオパトラとアントニウスの悲劇、アウグストゥスによるパクス・ロマーナなどなど劇的で壮大なエピソードがてんこ盛りですが、それらを簡潔に描写するのは僕の能力に余ります。
 本当に面白いのはここからなんですが、残念です。
 

 

ローマから日本が見える 9

2006-02-11 00:48:13 | Weblog
 ローマの指導者たちは急ぎ、軍を組織しましたが、平民たちの大移住によって兵力は半減しており、歴戦の勇将カミルスも国外に自主退去していました。
 迎撃に出たものの、勢いにのるケルト人に粉砕されました。
 蛮族に囲まれ、行き場を失った人々は市内にある、カピトリーノの丘に篭城することにしました。ローマにある7つの丘のうち、最も高かったからです。
 しかし、市民全員が逃げ込むには狭すぎました。
 結局、徹底抗戦のために丘には若者と壮齢期の男たち、そして、彼らの妻女のみが篭城することに決まりました。元老院議員であっても高齢なものは入れませんでした。
 ローマ市内に侵入したケルト人は暴虐の限りを尽くした、と史書は伝えます。
 同胞が虐殺され、住み慣れた街が破壊されてゆくのを丘の上の人々はただ、見ているしかありませんでした。
 
 7ヶ月にも及ぶ篭城の末、ローマ人はケルト人と和平を結びます。と言っても、ローマ人が勇猛に闘った結果ではありません。
 元来、森の住人であるケルト人にとって、都市を占領していることに魅力を感じなくなった、というのが最大の理由でした。
 彼らはローマ側が差し出した300キロの金塊を受け取ると、さっさと引き上げていきました。
 残されたのは廃墟とわずかの人々のみで、ここでローマが終わっても不思議ではないほどでした。
 この事件をローマ史家は<ケルト・ショック>と言います。エンヤの祖先がまさかこんなことを・・・<ぼくもショック>です。
 しかし残された人々は一致団結し、復興に励みました。
 まず第一にせねばならなかったのは周辺国との戦争です。
 それまでは周辺のラテン人の諸ポリスは、最も勢力のあったローマを中心として、ラテン同盟を結成していましたが、今回の事件でローマが弱体化したのを見ると、とたんに反旗をひるがえし、侵略を始めたのです。
 カミルスが呼び戻され、周辺の諸都市との戦いを繰り返しましたが、彼が率いる戦いはほとんど常勝といっていいほどでした。
 それによってローマの防衛網を再構築したカミルスは「第二のローマの建国者」とよばれました。  

ローマから日本が見える 8

2006-02-10 03:06:35 | Weblog
 ウェイの陥落から6年目の夏、ローマ人たちが予想もしてなかった事態が起きました。
 アルプスの南麓に住む、ケルト人の大軍が突如として南下を始めたのです。エトルリアの諸都市が次々と侵略され、ついにローマの国境にまで迫りました。
 元々彼らはアルプス以北の森林地帯に棲んでいたのですが、水が染み出すように次第に南側にも増えていました。
 しかしローマ人にとってはほとんど脅威ではありませんでした。
 それは、間にエトルリアの強力な防衛ラインがあったため、勇猛さで知られたケルト人もそれより南下することはできなかったからです。言って見ればエトルリアはローマのとって防波堤でした。
 それを自ら叩き壊してしまっていたのです。
 「森の蛮族現る」の知らせにローマ市民はパニックになりました。
 現代の我々にとってケルトのイメージは、エンヤをはじめとする、神秘的でノスタルジックな音楽、いたずら好きな妖精たちの物語、また、アーサー王伝説からナルニア国物語にまでつながる、ファンタジーなど、メルヘンティックにふちどられています。
 しかしローマ人にとってはそれどころではありませんでした。

 古代ケルト人について書きます。
 中央アジアの草原地帯にいた彼らが、馬に引かせた2輪の戦車(chariot)に乗り、鋭利な鉄製の武器をもって中央ヨーロッパに来たのは紀元前1000年ごろと言われています。気候の悪化が原因だったようです。
 ローマ人からは、ケルトと同じ語源ですが、ガリア人と、その居住地をガリアの地と呼ばれていました。
 部族ごとに散居し、各地で狩猟、焼畑農耕などでで生計をたてながら領土は持たず、広い森林地帯を移動しながら暮らしていました。
 ちなみに、今のヨーロッパはなだらかな丘陵にひろがる、牧場や、小麦畑を想像しますが、そのように「明るく」なったのは中世以降、冶金技術の改良によって大量に出回るようになった鉄製農耕器具によって森林が開墾されたからであって、以前は樫(オーク)やブナなどの大木におおわれた、鬱蒼とした「暗い」森でした。
 部族長会議によって、ゆるやかな横のつながりはあったものの、基本的にはそれぞれ独立し、広域な国家は形成しませんでした。この「非組織性」が後にローマ(シーザー)に征服され、ゲルマン人に駆逐される原因になります。
 彼らの社会はドルイド僧と騎士からなる支配階級とそれに隷属する平民から成っていました。
 ドルイド僧とはケルト独自の宗教の僧侶で、樫の木の賢者を意味します。
 シーザーの<ガリア戦記>によれば、「ドルイド僧が第一に人を説得したいと思っていることは、魂は決して滅びず、死後、一つの肉体から他の肉体へ移るという教えである。この信念こそガリア人をして死の恐怖を忘れさせ、武勇へと駆り立てる、最大の要因と考えている。」そうです。
 仏教の輪廻転生思想に似ていますが、仏教には転生を繰り返すうちに動物から人間へ、人間から仏へ完成にいたる、というある種の差別性があるのに対し、ドルイド教にはそのような人間と動物を分ける発想はありません。
 人間を頂点にしたピラミッド型の世界観を持つキリスト教とは対極にある宗教といえます。
 教義は文字にすると魔力が失われるとされ、子供のときから学校で習うのですが、その膨大な韻文を暗記するために20年以上もかかる人もいたそうです。
 性格は旅行家ストラボによると、男性は争いごとを好み、論争好きで、情熱的で興奮しやすい、女性は母性型で多産だったそうです。ギリシャの歴史家ディオドロスによれば「うぬぼれが強く、威嚇的」だそうです。
 ガリア人の普段の服装は、羊毛製のマントをはおり、チェック柄のズボンをはき、精巧な彫刻をほどこしたバックルでベルトをとめていました。
 女性は指輪をし、首や腕には黄金製のアクセサリーをつけ、指には今でいうマニキュアを塗り、ほほに植物から作った染料で赤く染めていたようです。
 トーガといわれる風呂敷のような布を巻きつけていたローマ人よりも機能的で現代的です。
 しかし戦闘時には凄いことになります。
 ディオドロスによると、「戦士たちは髪の毛を逆立てて、裸に金の首輪と腕飾りをしていた。さらに戦闘時には像や角をのせた青銅製の兜をかぶったために彼らは非常に背が高くみえた。」そうです。
 またローマの歴史家タキトゥスによれば、「ローマ軍と対峙したケルトの戦士がいならぶ姿はまるで武器の砦のようであり、女性たちは黒髪をふりみだし、金きり声をあげて叫ぶ姿は鬼女のようであった。」らしいです。
 彼らは長身、筋肉質で、金髪か、そうでない場合には人工的に脱色してきんぱつにし、それを逆立てて固め、青い染料を顔に塗り、上半身裸でつまり、一時期のヴィジュアル系のバンドのような格好で狂ったように叫びながら突進しました。
 それだけでもローマ人にとっては恐怖ですが、彼らのイメージをさらに不気味にしていたのは、首狩りの風習です。
 ニューギニアなどの首狩り族も同じですが、彼らは人頭には魔力があり、その所有者に超自然的な力を与える、と信じていました。
 そのため、戦いで殺した相手の頭部を切りはずして持ち帰り、自宅にならべて飾っていました。
 しかしローマ人からそんな信仰が理解できるはずもなく、野蛮人として恐れられました。

 
 
 

 
 
 
 

ローマから日本がみえる 7

2006-02-06 23:12:28 | Weblog
 予言者 カミルス

 共和制が始まって、約一世紀経ったころのことです。
 ローマは独裁官、カミルスの指揮の元、エトルリアの有力なポリスのウェイを攻略するのに成功しました。
 独裁官とは意思決定のスピードアップを目的として、戦時のみ置かれる役職で、二人の執政官の指名によって就任します。任期は6ヶ月のみながら、ほぼ全能の権力があたえられました。
 ウェイとの10年に及んだ戦争がようやく終わったのですが、それは別の抗争の始まりでもありました。戦時には一致団結するローマ人ですが、平和になると、貴族と平民の争いが顕在化するのです。
 陰に陽に、この一世紀は両者の軋轢が絶えることはありませんでした。
 根本の原因はブルータスたちが作った共和制のシステムそのものにあります。
 執政官は元老院で育てられ、議員のなかから推薦され、1年の任期が終わると元老院に戻ります。
 平民からみると、元老院イコール、貴族に政治を独占されたように見えました。
 また、戦争のための徴兵によって、平民は働き手を失い、生活が悪化するのに対し、使用人や奴隷を持つ貴族はそれほどのダメージがないのも、不公平感に拍車をかけました。
 兵役拒否のストライキすら一度ならず起きるほど対立が激しくなるなか、一つの対策として護民官が新たに設立されました。
 護民官は貴族の参加しない平民集会で選ばれ、執政官の決定への拒否権と肉体の不可侵権(予想される貴族からの攻撃に対する、安全保障として)の二つの特権が与えられました。
 それは画期的な改革のはずでしたが、実際にはあまり効果はありませんでした。 というのも、意思統一が最優先される戦時には護民官特権は停止するからです。そして当時のローマは戦争に明け暮れていました。
 
 ウェイを手に入れたとき、平民たちは立派な町並みをもつこの大都市を第2の首都にしよう、と提案しました。
 その裏には「貴族が幅をきかすローマを逃れたい」という意図があったのは言うまでもありません。
 この平民たちの提案に対して反対の先頭に立ったのはカミルスでした。
 「今日のローマがあるのは神々のご加護のおかげ、その神々の住まうローマを見捨てるなど、もってのほかである」と演説したのです。
 平民はウェイ攻略でこき使われたことも思い出し、カミルスを憎みました。そして「告発」によって対抗しました。
 「戦利品の使途に不明朗な点がある」と非難したのです。
 ローマには「自主的に国外退去したものは罪を問わない」という決まりがありました。
 市民集会で行われる裁判にのぞめば必ず有罪にされる、と考えたカミルスはローマから離れました。
 平民たちは快哉を叫び、続々と新天地、ウェイへ移住しました。
 しかし、ローマ人はこの住民大移動から時を経ずして、カミルスの予言が真実であることを思い知らされることになりました。
   
 

 

ローマから日本が見える 6 

2006-02-05 03:06:10 | Weblog
 タルクィニウスを追放することに成功したブルータスは、さっそく政治改革に着手しました。
 「今後、ローマはいかなる人物であろうとも王位に就くことを許さない」と宣言し、新たに執政官という制度をもうけました。
 執政官は市民集会の選挙によって選ばれるのは王と同じですが、終身制ではなく、任期はたったの1年のみ。
 また2人同時に就任し、お互いの政策に対する拒否権をもっていました。
 このように徹底的に2度と独裁者が現れないための対策がとられました。
 とは言え、任期が1年では長期的な視野に基づいた政治ができないため、かわりに元老院の機能が強化されました。
 200人だった元老院の定員を300人にまで増やし、ローマの主だった有力者をほとんどカバーしました。
 元老院は終身制です。そのため、そこに長くいれば経験をつみ、政治的見識を磨くことができました。
 執政官は元老院議員のなかから、元老院の「世論」によって推薦されます。
 つまり、元老院は執政官の養成所であり、次期候補の人材のプールになったのです。
 こうして最初の執政官に選ばれたのは、ブルータスとルクレツィアの夫である、コラティヌスでした。

 しかしどんな改革にも昔を懐かしむ反動勢力は出てくるものです。ローマの場合、それは意外な層から出ました。
 若者たちがエトルリアに逃げたタルクィニウスを呼び戻し、王政を復古しようと企てていたことが発覚したのです。
 王政ではたとえ若くても能力とチャンスさえあれば、王に認められ抜擢される可能性があったのに、共和制では、まず元老院入りし、経験を積み、人々に認められ、と言う気の遠くなるステップを踏まなければならない。
 野心あふれる若者にとっては、それは我慢ならないことだったのです。
 人々にとってさらに意外だったのは、陰謀グループの血判状のなかにブルータスの2人の息子の名があったことでした。
 国家反逆の罪は死刑です。
 民衆はブルータスの心中を察し、2人を国外追放にしよう、と提案しました。 
 しかし共和制は産声をあげて間もなく、危ういものでした。守るためには断固たる態度を取らざるをえませんでした。
 ブルータスはあえて2人の息子に罪状の真偽を問いました。
 息子たちがうなだれたまま何も答えないのを見ると、死刑を宣告しました。
 2人はその場で服をぬがされ、ムチで打たれた後、斧で処刑されました。
 「ブルータスはその光景を表情を変えずに最後まで見届けてから、立ち去った」と史書は伝えています。