日本版「ジャージー・ボーイズ」はBWオリジナル版とは異なる日本独自演出で上演されました。演出家の藤田氏の意気込みはさまざまなインタビューからも伝わってきました。
ところで、話は変わりますが…藤田氏は昨年11月のBW「ジャージー・ボーイズ」10周年の週末にオーガスト・ウィルソン劇場にいらっしゃいましたよね?
お見掛けしていると思います…
はい、この話は終わり
私が何度も観たBW版「ジャージー・ボーイズ」、デス・マカナフの演出には二つの特徴が挙げられると思います。
まず一つは「追憶の劇」であるということ。
この作品は、終始一貫して、過ぎ去った日々のことを4人が4つの視点から引っぱり出してくるもので、あくまでも語られるのは4人の目を通しての「真実」そして、人の記憶というのは都合がいい。
ほぼ同時代を生きてきた観客の多くは(フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズのことを実際に知っていたかどうかは別)その4つの視点に寄り添いながら、真実を探ろうとします。
BWオリジナルの舞台は、典型的な額縁舞台であるうえに、さらに舞台を囲むようなセットがあるために、舞台全体が過ぎた日々の写真のフレームのようにも見えます。作品全体が静止画の連続のようにシーンが見せられると言ってもいいでしょう。照明も音楽も柔らかく、追憶の情をかきたててくれます。
オリジナルの演出におけるもう一つの特徴は、熱心なカトリック教徒でもあるイタリア系のかれらの世界観のようなものが随所に見られる点です。このあたりは適切な言葉を選んで語るのはとても難しい部分ですが、少なくとも、そのような印象を受ける…という点ですね。
しかし、これらは日本でそのままやっても伝わらない部分のほうが多いでしょう。まず、客層が日本ではかなり若くなりそうで、彼らの音楽とその時代の思い出を共有するのは難しい。カトリックとしての彼らの世界観を共有するのも難しい…
「日本版は別演出」というのは、これはこれできわめて当然のことではないかという気がします。
また、この「ジャージー・ボーイズ」、映画版が日本で好評だったことからも分かるように、この作品そのものが、日本人の感性に合う要素もあり、オリジナルから離れても、日本なりの「ジャージー・ボーイズ」を創りだすことは可能だと思います。
かつて、「屋根の上のバイオリン弾き」のアメリカ側のクリエイターの一人が、日本の演劇関係者から「あんなに日本人好みの話が、なぜアメリカで人気があるのですか?」と尋ねられたことがあると愉快そうに語っていましたが、「ジャージー・ボーイズ」についても、これは大いにありうることではないでしょうか?
まぁ、とにかく…「ジャージー・ボーイズ」については、さらに日本の観客が共感しやすいような独自の演出を試みるというのは当然の流れだと思えるのでした。
そして、藤田氏のインタビューを拝見していると、日本版のテーマは「追憶の劇」ではなくて「終わらない青春」なのだという。そして、「観客が目撃者となる」のだと…。
日本版は、特に女性たちのファッションからは60年代をほとんど感じません。これは敢えてこうしたのだろうと思います。時代や場所を特定しない、普遍の青春物語を作ろうとしたのであろうと。青春のエネルギーそのままに、非常に混とんとした猥雑な世界が繰り広げられていきます。そこに青春の真実を見るのが日本版の演出といったところでしょうか。
で…藤田演出の「観客が目撃者」ということですが…ここ、すごく重要ですよね。
では、BWオリジナル版の「目撃者」は…これは、少なくとも観客ではないと思う。
…おそらく、前回の記事で演者さんたちの「アドリブ」についての思いを書かせていただきましたが、おそらくそのあたりも「目撃者は誰か?」という部分にかかっているような気もします。
「観客が目撃者」であれば、当然、観客にすべてを見せて、観客自身が、自分の目ですべてを判断すればいいわけです。
例えば、冒頭のシーンでは、BWオリジナルでは、フランキーは上方から登場します。このシーンは個人的に大好きなシーンなのですが…フランキー少年が掃きだめのような世界に舞い降りた天使のように登場するのです。天使というのは、人間に過ちを教えるために罰を与え、正しき行いをすれば幸福を与えるけれど、自らの力で、内在する業を晴らすことが出来ない。このフランキー登場のシーンで、この美しい声を持った天使の運命が既に暗示されているといっていい(と、私は思っている)
日本版では、フランキーは下からの登場でした。市井の人々の中から浮き上がるように現れました。「さぁ、この少年の歩む人生を見なさい」と観客に言っているようでした。
私は、このフランキー登場シーンで「あ~、日本版はBWオリジナルとは全くの別物!」と悟りました。ここまで違わせてくれたら(中途半端に共通点のある演出よりも)かえってすがすがしかったです。
とにかく、このフランキー登場シーンに限らず、BWオリジナルの演出は、舞台演出そのものに「全知の視点」が仕込まれています。それが彼らの「目撃者」なのだと言えると思います。彼らは、表面上は、4人それぞれの都合のいい記憶を語っているように見えても、実際それは「何か絶対的なもの」に常に見られているということです。そして、そのことに気づいているのは、舞台上の登場人物ではなく、観客であるということです。
次回は「ジャージー契約」の表現をめぐって…ということで:)
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