『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

烏丸光康(からすまるみつやす)

2016-10-01 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
烏丸光康(からすまるみつやす)

〔現代かなづかい〕からすまるみつやす

 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


烏丸殿烏丸氏は今の京都市中京区烏丸から

起きる。権中納言冬光の二男。

1519年元服、従五位上に叙せられ、諸官を歴任。

1527年近江にいた将軍足利義晴の許に寄宿。

1531年越前にいた将軍足利義晴の許に寄宿。

1546年従二位で権大納言となる。

1559~1566年石山本願寺に寄宿。

1568年従一位を授けられたが、1572年これを返上。


1572年9月の信長「異見十七カ条」のなかで、

    「烏丸勘気を蒙るの儀」の項に出てくる。

1575年辞職。

1575年3月信長上洛時、今川氏真を接待する

    為の蹴鞠の会に参加。

1579年4月27日(准大臣宣下をこうむり従一位に復して)死去。


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