足利義昭(あしかがよしあき)[5/5]
〔現代かなづかい〕あしかがよしあき
※何度も信長は救いの手を差しのべるのに、
ことごとく振り払う足利義昭。因果応報、
諸行無常。
※下記の通り、1573年7月に足利義昭が都から
放逐された時点を「室町時代の終わり」と
一般的に見るようです。(Wikipediaより)
※今回出てきた木下藤吉郎は、1573年8月~
9月ごろ「羽柴秀吉」になったとされて
います。(信長公記:脚注)
※下線部は信長公記以外の記事によります。
1573年4月信長が洛外に放火した上で和議の
申し出をするも、またも拒否。
1573年4月二条城の回りに放火され正親町帝から
の命もありやっと和議を結ぶ。
1573年7月再び叛乱を起こし、二条城に日野輝資・
高倉永相・伊勢貞興・三淵藤英を置き、
自身は真木嶋に御座。二条城は信長方に
攻囲されただけで降参。
1573年7月真木嶋攻防戦で信長方に敗れると、
子息(実相院門跡義尋)を人質に出し、
命を助けられ若江城まで木下藤吉郎に
送られる。
その後河内の三好氏→紀伊→備後鞆と移り、
毛利元就を頼り毛利氏に担がれる。豊臣
秀吉の代になり招かれて帰京した義昭は
山城槇島に住み一万石を与えられた。1597年没。
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〔現代かなづかい〕あしかがよしあき
※何度も信長は救いの手を差しのべるのに、
ことごとく振り払う足利義昭。因果応報、
諸行無常。
※下記の通り、1573年7月に足利義昭が都から
放逐された時点を「室町時代の終わり」と
一般的に見るようです。(Wikipediaより)
※今回出てきた木下藤吉郎は、1573年8月~
9月ごろ「羽柴秀吉」になったとされて
います。(信長公記:脚注)
※下線部は信長公記以外の記事によります。
1573年4月信長が洛外に放火した上で和議の
申し出をするも、またも拒否。
1573年4月二条城の回りに放火され正親町帝から
の命もありやっと和議を結ぶ。
1573年7月再び叛乱を起こし、二条城に日野輝資・
高倉永相・伊勢貞興・三淵藤英を置き、
自身は真木嶋に御座。二条城は信長方に
攻囲されただけで降参。
1573年7月真木嶋攻防戦で信長方に敗れると、
子息(実相院門跡義尋)を人質に出し、
命を助けられ若江城まで木下藤吉郎に
送られる。
その後河内の三好氏→紀伊→備後鞆と移り、
毛利元就を頼り毛利氏に担がれる。豊臣
秀吉の代になり招かれて帰京した義昭は
山城槇島に住み一万石を与えられた。1597年没。
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