『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

足利義昭(あしかがよしあき)[5/5]

2015-04-30 17:56:24 | 信長公記の蔵:人物篇
足利義昭(あしかがよしあき)[5/5]

〔現代かなづかい〕あしかがよしあき


 ※何度も信長は救いの手を差しのべるのに、

  ことごとく振り払う足利義昭。因果応報、

  諸行無常。

 ※下記の通り、1573年7月に足利義昭が都から

  放逐された時点を「室町時代の終わり」と

  一般的に見るようです。(Wikipediaより)

 ※今回出てきた木下藤吉郎は、1573年8月~

  9月ごろ「羽柴秀吉」になったとされて

  います。(信長公記:脚注)

 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


1573年4月信長が洛外に放火した上で和議の

    申し出をするも、またも拒否。

1573年4月二条城の回りに放火され正親町帝から

    の命もありやっと和議を結ぶ。

1573年7月再び叛乱を起こし、二条城に日野輝資・

    高倉永相・伊勢貞興・三淵藤英を置き、

    自身は真木嶋に御座。二条城は信長方に

    攻囲されただけで降参。

1573年7月真木嶋攻防戦で信長方に敗れると、

    子息(実相院門跡義尋)を人質に出し、

    命を助けられ若江城まで木下藤吉郎に

    送られる。

その後河内の三好氏→紀伊→備後鞆と移り、

毛利元就を頼り毛利氏に担がれる。豊臣

秀吉の代になり招かれて帰京した義昭は

山城槇島に住み一万石を与えられた。1597年没。


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