多賀谷重経(たがやしげつね)
〔現代仮名遣い〕たがやしげつね
※下線部は信長公記以外の記事によります。
修理亮。常陸国下妻城主。
1579年4月信長に星河原毛の馬で丈四尺八寸で
7歳、三十里を往復してもびくともし
ない逸物を進上。
1583年には羽柴秀吉の賤ヶ岳の戦いの勝利を祝
賀し、1586年には「初雁」を献じる。
1590年の小田原の役では結城晴朝らと参陣して、
成田氏の守る武蔵埼玉郡忍城攻めに加わり秀吉に
謁見。戦後下妻六万石を安堵された。その際結城
氏に服属するよう命ぜられたがこれを不満とし、
文禄の役で出された結城秀康配下での出陣命令に
も、病気として服さなかったという。佐竹義宣の
弟宣家を養子として佐竹氏と結ぶ。
1600年関ヶ原の役では上杉景勝に応じて参加。戦
後所領は没収、居城は破却された。放浪の後、1618
年近江彦根で死去。改易後、子息三経は結城秀康に、
養子宣家は佐竹義宣に仕える。
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〔現代仮名遣い〕たがやしげつね
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修理亮。常陸国下妻城主。
1579年4月信長に星河原毛の馬で丈四尺八寸で
7歳、三十里を往復してもびくともし
ない逸物を進上。
1583年には羽柴秀吉の賤ヶ岳の戦いの勝利を祝
賀し、1586年には「初雁」を献じる。
1590年の小田原の役では結城晴朝らと参陣して、
成田氏の守る武蔵埼玉郡忍城攻めに加わり秀吉に
謁見。戦後下妻六万石を安堵された。その際結城
氏に服属するよう命ぜられたがこれを不満とし、
文禄の役で出された結城秀康配下での出陣命令に
も、病気として服さなかったという。佐竹義宣の
弟宣家を養子として佐竹氏と結ぶ。
1600年関ヶ原の役では上杉景勝に応じて参加。戦
後所領は没収、居城は破却された。放浪の後、1618
年近江彦根で死去。改易後、子息三経は結城秀康に、
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