『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

多賀谷重経(たがやしげつね)

2017-12-03 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
多賀谷重経(たがやしげつね)

〔現代仮名遣い〕たがやしげつね

※下線部は信長公記以外の記事によります。


修理亮。常陸国下妻城主。

1579年4月信長に星河原毛の馬で丈四尺八寸で

    7歳、三十里を往復してもびくともし

    ない逸物を進上。

1583年には羽柴秀吉の賤ヶ岳の戦いの勝利を祝

賀し、1586年には「初雁」を献じる。

1590年の小田原の役では結城晴朝らと参陣して、

成田氏の守る武蔵埼玉郡忍城攻めに加わり秀吉に

謁見。戦後下妻六万石を安堵された。その際結城

氏に服属するよう命ぜられたがこれを不満とし、

文禄の役で出された結城秀康配下での出陣命令に

も、病気として服さなかったという。佐竹義宣の

弟宣家を養子として佐竹氏と結ぶ。

1600年関ヶ原の役では上杉景勝に応じて参加。戦

後所領は没収、居城は破却された。放浪の後、1618

年近江彦根で死去。改易後、子息三経は結城秀康に、

養子宣家は佐竹義宣に仕える。



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