前波長俊(まへばながとし)
〔現代仮名遣い〕まえばながとし
※下線部は信長公記以外の記事によります。
九郎兵衛・播磨守・前波吉継・桂田長俊。越前の
豪族で、朝倉氏の一族。
1562年朝倉義景が一乗谷の阿波賀高原で京都から
下向してきた大覚寺義俊ら公家たちを饗応するため
に曲水の宴を催し、吉継もこれに参加。
1572年8月信長浅井攻めの最中、親子三人で信長
の元へ身方に参上。
1573年8月信長の朝倉・浅井倒滅戦では、吉継が
道案内を勤める。義景自害の後、朝倉景鏡の籠も
る亥山城攻撃の先陣をつとめる。
朝倉が滅び越前が平定されると、信長の命により
守護代として入国。
人名事典では守護。同年信長が上洛すると吉継も
上洛。名を「桂田長俊」と改める。同年京都から
下向の途中眼病を患い失明。
1574年1月同輩の富田長繁と不和になり、一揆を
起こした長繁に府中を攻められ自刃。
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九郎兵衛・播磨守・前波吉継・桂田長俊。越前の
豪族で、朝倉氏の一族。
1562年朝倉義景が一乗谷の阿波賀高原で京都から
下向してきた大覚寺義俊ら公家たちを饗応するため
に曲水の宴を催し、吉継もこれに参加。
1572年8月信長浅井攻めの最中、親子三人で信長
の元へ身方に参上。
1573年8月信長の朝倉・浅井倒滅戦では、吉継が
道案内を勤める。義景自害の後、朝倉景鏡の籠も
る亥山城攻撃の先陣をつとめる。
朝倉が滅び越前が平定されると、信長の命により
守護代として入国。
人名事典では守護。同年信長が上洛すると吉継も
上洛。名を「桂田長俊」と改める。同年京都から
下向の途中眼病を患い失明。
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