『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

前波長俊(まへばながとし)

2019-06-22 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
前波長俊(まへばながとし)

〔現代仮名遣い〕まえばながとし

※下線部は信長公記以外の記事によります。


九郎兵衛・播磨守・前波吉継・桂田長俊。越前の

豪族で、朝倉氏の一族。

1562年朝倉義景が一乗谷の阿波賀高原で京都から

下向してきた大覚寺義俊ら公家たちを饗応するため

に曲水の宴を催し、吉継もこれに参加。


1572年8月信長浅井攻めの最中、親子三人で信長

    の元へ身方に参上。

1573年8月信長の朝倉・浅井倒滅戦では、吉継が

道案内を勤める。義景自害の後、朝倉景鏡の籠も

る亥山城攻撃の先陣をつとめる。


朝倉が滅び越前が平定されると、信長の命により

    守護代として入国。

人名事典では守護。同年信長が上洛すると吉継も

上洛。名を「桂田長俊」と改める。同年京都から

下向の途中眼病を患い失明。


1574年1月同輩の富田長繁と不和になり、一揆を

    起こした長繁に府中を攻められ自刃。


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