『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

千宗易(せんのそうえき)[1/3]

2017-10-19 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
千宗易(せんのそうえき)[1/3]

〔現代仮名遣い〕せんのそうえき

※記事量が多いため3回に分けての投稿です。

※下線部は信長公記以外の記事によります。


堺の町衆でわび茶の大成者。千与兵衛の子

として堺今市町に生まれる。魚問屋で納屋

であったという。与四郎→宗易→利休。十代

から茶の湯を好み武野紹鷗に入門してわび

茶を学ぶ。のち津田宗及・今井宗久・千宗易

(利休)の三人は「三宗匠」と呼ばれる。1532

~1555年から「宗易」あるいは「抛筌斎」を

号し茶会を開いた記録が残り、それによると

珠光好みの茶碗を用い、禅僧の墨跡を掛ける

など、堺の町衆が唐物中心の名物を重んじた

のに対し、独自のわびの主張がうかがわれる。

40歳台の後半から一時家運が傾いたと見られ

るが、茶匠としての名声はしだいに高まった。

1571年織田信長の名物集めのとき、その命に

より茶をたてる。1573年には信長の茶頭とし

て三千石で召抱えられたという。


1575年10月信長が二条妙覚寺で茶の湯を主催

    したとき、茶頭をつとめる。


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