千宗易(せんのそうえき)[1/3]
〔現代仮名遣い〕せんのそうえき
※記事量が多いため3回に分けての投稿です。
※下線部は信長公記以外の記事によります。
堺の町衆でわび茶の大成者。千与兵衛の子
として堺今市町に生まれる。魚問屋で納屋
であったという。与四郎→宗易→利休。十代
から茶の湯を好み武野紹鷗に入門してわび
茶を学ぶ。のち津田宗及・今井宗久・千宗易
(利休)の三人は「三宗匠」と呼ばれる。1532
~1555年から「宗易」あるいは「抛筌斎」を
号し茶会を開いた記録が残り、それによると
珠光好みの茶碗を用い、禅僧の墨跡を掛ける
など、堺の町衆が唐物中心の名物を重んじた
のに対し、独自のわびの主張がうかがわれる。
40歳台の後半から一時家運が傾いたと見られ
るが、茶匠としての名声はしだいに高まった。
1571年織田信長の名物集めのとき、その命に
より茶をたてる。1573年には信長の茶頭とし
て三千石で召抱えられたという。
1575年10月信長が二条妙覚寺で茶の湯を主催
したとき、茶頭をつとめる。
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堺の町衆でわび茶の大成者。千与兵衛の子
として堺今市町に生まれる。魚問屋で納屋
であったという。与四郎→宗易→利休。十代
から茶の湯を好み武野紹鷗に入門してわび
茶を学ぶ。のち津田宗及・今井宗久・千宗易
(利休)の三人は「三宗匠」と呼ばれる。1532
~1555年から「宗易」あるいは「抛筌斎」を
号し茶会を開いた記録が残り、それによると
珠光好みの茶碗を用い、禅僧の墨跡を掛ける
など、堺の町衆が唐物中心の名物を重んじた
のに対し、独自のわびの主張がうかがわれる。
40歳台の後半から一時家運が傾いたと見られ
るが、茶匠としての名声はしだいに高まった。
1571年織田信長の名物集めのとき、その命に
より茶をたてる。1573年には信長の茶頭とし
て三千石で召抱えられたという。
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