千宗易(せんのそうえき)[2/3]
〔現代仮名遣い〕せんのそうえき
※下線部は信長公記以外の記事によります。
1582年信長の没後は羽柴秀吉に仕え、同年
山城国山崎に二畳敷の茶室を秀吉のために
造っている。1585年正親町天皇に茶を献ず
る禁中茶会が開かれ、利休居士号が勅賜さ
れたとされる。1587年九州征伐から凱旋し
た秀吉は、その示威として北野神社境内で
大茶の湯を企画し、利休が采配を振るった。
当時の利休は秀吉の非公式な側近として非
常な力を持っていたが、しだいに堺の重要
性が薄れるに伴って政治的な立場は弱体化
していった。1589年大徳寺聚光院に逆修の
墓を立て、大徳寺の春屋宗園・古渓宗陳に
深く帰依。12月父の五十回忌の法要を営む
に当たって大徳寺山門の修造の費用を寄進
した。このころから秀吉としだいに疎遠に
なり、1591年大徳寺山門上に置かれた利休
木像が問題化して、同年2月京都の自邸で切
腹を命じられ自害。
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〔現代仮名遣い〕せんのそうえき
※下線部は信長公記以外の記事によります。
1582年信長の没後は羽柴秀吉に仕え、同年
山城国山崎に二畳敷の茶室を秀吉のために
造っている。1585年正親町天皇に茶を献ず
る禁中茶会が開かれ、利休居士号が勅賜さ
れたとされる。1587年九州征伐から凱旋し
た秀吉は、その示威として北野神社境内で
大茶の湯を企画し、利休が采配を振るった。
当時の利休は秀吉の非公式な側近として非
常な力を持っていたが、しだいに堺の重要
性が薄れるに伴って政治的な立場は弱体化
していった。1589年大徳寺聚光院に逆修の
墓を立て、大徳寺の春屋宗園・古渓宗陳に
深く帰依。12月父の五十回忌の法要を営む
に当たって大徳寺山門の修造の費用を寄進
した。このころから秀吉としだいに疎遠に
なり、1591年大徳寺山門上に置かれた利休
木像が問題化して、同年2月京都の自邸で切
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