『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

千宗易(せんのそうえき)[2/3]

2017-10-20 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
千宗易(せんのそうえき)[2/3]

〔現代仮名遣い〕せんのそうえき

※下線部は信長公記以外の記事によります。


1582年信長の没後は羽柴秀吉に仕え、同年

山城国山崎に二畳敷の茶室を秀吉のために

造っている。1585年正親町天皇に茶を献ず

る禁中茶会が開かれ、利休居士号が勅賜さ

れたとされる。1587年九州征伐から凱旋し

た秀吉は、その示威として北野神社境内で

大茶の湯を企画し、利休が采配を振るった。

当時の利休は秀吉の非公式な側近として非

常な力を持っていたが、しだいに堺の重要

性が薄れるに伴って政治的な立場は弱体化

していった。1589年大徳寺聚光院に逆修の

墓を立て、大徳寺の春屋宗園・古渓宗陳に

深く帰依。12月父の五十回忌の法要を営む

に当たって大徳寺山門の修造の費用を寄進

した。このころから秀吉としだいに疎遠に

なり、1591年大徳寺山門上に置かれた利休

木像が問題化して、同年2月京都の自邸で切

腹を命じられ自害。



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