『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

小早川隆景(こばやかはたかかげ)[2/2]

2017-03-24 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小早川隆景(こばやかはたかかげ)[2/2]

〔現代仮名遣い〕こばやかわたかかげ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


1582年5月羽柴秀吉が宿面塚城を攻略し、

    並びのゑつたの城を攻めると、

    敵は降参退城し高松城に立てこもる。

    秀吉が高松城に詰め寄り水攻めに

    すると、毛利輝元・吉川元春・小早川

    隆景が出陣してきて、高松で退陣する。

1582年6月本能寺の変のとき、清水宗治自刃

を条件に秀吉と講和を結ぶと、以後秀吉の勢力

下に入る。

1582年本拠を沼田の新高山城から三原城に移す。

1585年秀吉の四国征伐の戦功により、伊予一国

を与えられた。

1587年秀吉は九州征伐後、隆景に筑前・筑後

両国と肥前一郡半を与えた。

1592年朝鮮の役に参戦。

1593年碧蹄館の戦いで明の大軍を撃破した。

帰国後はいわゆる豊臣五大老の一人として

中央政治に参画した。また秀吉の外甥の秀秋

を養子に迎え、小早川氏を継がせた。

1597年死去。


 ※毛利元就の三男として秀吉五大老まで

  上り詰めましたが、養子に取った秀秋

  は関ケ原の戦いのあと(名を秀詮と改め

  た後)21歳で急死。秀詮の死後、小早川

  家は無嗣断絶となりましたが、これが

  徳川政権初の無嗣改易だったという・・

  諸行無常でございます。


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