小早川隆景(こばやかはたかかげ)[2/2]
〔現代仮名遣い〕こばやかわたかかげ
※下線部は信長公記以外の記事によります。
1582年5月羽柴秀吉が宿面塚城を攻略し、
並びのゑつたの城を攻めると、
敵は降参退城し高松城に立てこもる。
秀吉が高松城に詰め寄り水攻めに
すると、毛利輝元・吉川元春・小早川
隆景が出陣してきて、高松で退陣する。
1582年6月本能寺の変のとき、清水宗治自刃
を条件に秀吉と講和を結ぶと、以後秀吉の勢力
下に入る。
1582年本拠を沼田の新高山城から三原城に移す。
1585年秀吉の四国征伐の戦功により、伊予一国
を与えられた。
1587年秀吉は九州征伐後、隆景に筑前・筑後
両国と肥前一郡半を与えた。
1592年朝鮮の役に参戦。
1593年碧蹄館の戦いで明の大軍を撃破した。
帰国後はいわゆる豊臣五大老の一人として
中央政治に参画した。また秀吉の外甥の秀秋
を養子に迎え、小早川氏を継がせた。
1597年死去。
※毛利元就の三男として秀吉五大老まで
上り詰めましたが、養子に取った秀秋
は関ケ原の戦いのあと(名を秀詮と改め
た後)21歳で急死。秀詮の死後、小早川
家は無嗣断絶となりましたが、これが
徳川政権初の無嗣改易だったという・・
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※下線部は信長公記以外の記事によります。
1582年5月羽柴秀吉が宿面塚城を攻略し、
並びのゑつたの城を攻めると、
敵は降参退城し高松城に立てこもる。
秀吉が高松城に詰め寄り水攻めに
すると、毛利輝元・吉川元春・小早川
隆景が出陣してきて、高松で退陣する。
1582年6月本能寺の変のとき、清水宗治自刃
を条件に秀吉と講和を結ぶと、以後秀吉の勢力
下に入る。
1582年本拠を沼田の新高山城から三原城に移す。
1585年秀吉の四国征伐の戦功により、伊予一国
を与えられた。
1587年秀吉は九州征伐後、隆景に筑前・筑後
両国と肥前一郡半を与えた。
1592年朝鮮の役に参戦。
1593年碧蹄館の戦いで明の大軍を撃破した。
帰国後はいわゆる豊臣五大老の一人として
中央政治に参画した。また秀吉の外甥の秀秋
を養子に迎え、小早川氏を継がせた。
1597年死去。
※毛利元就の三男として秀吉五大老まで
上り詰めましたが、養子に取った秀秋
は関ケ原の戦いのあと(名を秀詮と改め
た後)21歳で急死。秀詮の死後、小早川
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