またまた統計の話
二つの出来事を比較して「差が有る」と言いたいときには、差が有ることを示すだけでなく差が無いことを否定できることも必要です。
そこで、「差が無い」と仮定して、これを否定することで差が有るということにしようというのが、統計学で行う有意差検定であり、「差が無い」という仮説が正しい時に、検定に用いたデータ以上に「差が無さそうだ」というデータが得られる確率を求めたものが有意確率です。
しかし確率である以上、有意確率がどんなに小さくとも0にならない限りは、差が無いことを否定することはできません。
つまり、有意確率が小さいほど、「差が無いという結果が生じる確率がとても低いので、二つの群の差には何らかの意味が有ると言えそうだ」とは言えますが、「差が有る」という結論に至るわけではないのが有意差検定の本質なのです。
そこで巧みな統計学者たちは明確に「差が有る」とは言わず「有意な差が有る」というよくわからない表現を使います。だから何だって感じですね(笑)。
有意確率=0.05は、100人の研究者によって同じ実験行われた場合に95人には「『差が無いという仮説』を棄却できる結果」が得られて、5人には「『差が無いという仮説』を棄却できない結果」が得られることを意味します。
どちらが正しいのかは誰にも決められませんが、普通に考えれば多数決で95人に軍配が上がるのでしょう。しかし統計学では一般的に有意水準を0.05として、有意確率がこれよりも小さい時に『差が無いという仮説』を棄却して「二つの群の差には何らかの意味が有る」とされますので、この場合には『差が無いという仮説』は棄却することができません。だからといって「差が無い」わけではなく、「差が無いことが否定されない」だけないのです。
なお、100人が同時に同じ研究を行うことはあり得ませんので、単発の論文が95人側に含まれるのか?、それとも5人側なのか?は、本人にも査読者にも論文の読者にも誰にもわかりません。そもそも、同じ研究で同じ結論に至る論文は新規性が無いとしてリジェクトされますので、論文件数から探ることも不可能なのです。
したがって、有意差検定の結果は「二つの群の差に何らかの意味が有るかないか」を決めつける根拠とはならず、あくまでも論者の結論が確からしいことを示す目安の一つに過ぎないということになります。統計学の父たる偉大なフィッシャー(釣り人ではなくSir Ronald Aylmer Fisher )も、有意確率が有意水準よりも小さい時には、さらに深く追及するべきであると述べていたそうです。
結局のところ、研究の結論はその事象を良く知る研究者の経験や知識に基づいた主観に依存せざるを得ず、悪意を含んだ特別な事例を除いて、多くの場合はこの主観は正しいと受け止めざるを得ないのでしょう。
Fisherが出てきたので、やはり釣りネタということで・・・(笑)。
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