御主殿を見た後、いよいよ八王子城山を登る事にした。
見学だけでなくて昼食も済ませたので、「此れから山登りをする」にしては遅い時間になってしまった。
そしてお腹も一杯。
「もう少しゆっくりして、此れで帰ってしまっても良いかも・・・」
と、自分に対しての「甘い言葉」が聞こえてくる。
この橋が登山道への入口。
「此れを渡ると登山の開始か・・・。」
「此処で止めれば、登山は次回にして今日はのんびり散歩」
う~ん、どうしようか。
意を決して橋を渡る。
橋からの光景だが、小川程度の幅しかないが、やけに深くて急な穴になっており、城側も非常に急な斜面になっている。
防御上の考えから敢えて掘削したのではないかと感じた。
私が此処に落ちたら這い上がれるだろうか?
這い上がれずに何度も川底に転げ落ちそうだ。
城に篭る北条方から狙い撃ちにされてしまうかな?
「否、こいつは放って置いても大丈夫だ!」
「玉(矢)が勿体無いし、このままにして置いた方が面白い」
と言われてしまいそうだ。
所々に
「城が有った当時は此処に○○が有り・・・」
と言う案内板が設置されている。
其れが無ければ何も考えずに通り過ぎてしまいそうな登山道だが、説明を読んだ後だと
「確かに自然の物にしては少々違和感が有るか・・・」
と、道の傾斜や段差・幅が意図的に作られた物である事に気付かされる。
写真は、敵の侵入を防ぐ為に尾根を雛壇状に造成している「金子丸」と呼ばれている曲輪跡。
名の由来は金子三郎左衛門家重(かねこさぶろうざえもんいえしげ)が守っていたから。
金子丸の先は、山腹をクルっと回る様に細い道が続き、更に急な上り坂へと続きます。
道は細く、通行の便よりも防御面を考慮した道である事を感じさせられます。
写真は、その先の眺望の良い場所からの光景。
南側が開けている道で、そちら側は落ちたら這い上がれない様な急斜面になっています。
守備隊は前方から鉄砲や弓で狙い撃ちにし、更に近寄ってくる敵をこの斜面の下に突き落とすと言う戦い方をしたのでしょう。
麓の集落だけでなく、遠く相模平野が見渡せるこの場所で、当時の人々は何を思い、どう言った事を感じながら過ごしていたのだろう?
戦いの前には、城に迫ってくる大軍勢を前にどう言った心境だったのだろう?
山頂の直ぐ下には平らで開けた場所が有ります。
此処に八王子神社のお社が有ります。
その直ぐ左手には小さなお社が有り、説明書きも。
其処にはこのお社が「横地社」で、北条氏照が小田原城に向かった留守の間、この城の守備を任された横地監物に由来する物である事が記されています。
横地監物は、八王子城落城の際に逃げ延び、奥多摩に逃れましたが、其処で自決しました。
村人は祠を作り、彼の霊を慰める場を設けますが、小河内ダム建設に因って水没してしまう事から移設する運びとなり、その際に彼が守ろうとした八王子城へ移設するのが望ましいだろうと言う事になったそうです。
ダムに水没する神社や石仏の移設先が、山の上や住民の移転先である地区に設けられる事は頻繁に耳にしますが、遥か離れた他の市町村と言うのは珍しい事例。
長い間信仰の対象であったり、集落の皆で守ってきた物を他の街に移す事は珍しいと思います。
「祭られた人物にとって大切な地」と言うのがこの移設に関わった方々に対して敬服してしまう話です。
八王子城落城は1590年で、小河内ダムは1938(昭和13)着工されたダム。
戦中に建設が中断し、1957(昭和32)から湛水が開始されたダム。
お社の移設は着工前だとしても、落城から350年近く経っている。
横地監物は350年振りに帰って来て、どの様に感じたのだろう?
この地であの様な激しい戦いが起こる事は無く、都会の喧騒からも離れた静かな地になっている。
彼は共に散った仲間達の事を思いながら、城の守護者ではなく、神社への参拝者や登山者を見守る山の守護者としての日々を過ごしている。
神社の左手には、展望の良い開けた場所が有り、大きな石碑やらベンチが並んでいる。
八王子市内はもとより、新宿や池袋迄見渡せる場所で、高尾の山々や富士山も見る事が出来るとの事。
此処には中山勘解由家範(なかやまかげゆいえのり)が守っていた松木曲輪が有ったとの事。
多勢に無勢で守りきれなかったものの、家範の勇猛振りが徳川家康の耳の入り、家範の遺児が取り立てられて水戸藩の家老にまで出世したそうです。
此処が八王子城山の山頂。
平らな部分は有りますが、神社や松木曲輪が有る山頂直下の平地に比べると非常に狭い場所です。
現在の山頂には小さなお社が有りますが、此処に本丸が有ったと言われています。
唯、非常に狭い場所なので、他の城の本丸の様な「城の守備で最も重要な建築物」ではなく、本丸と言っても小さな建物しかなかったと考えられています。
山頂を踏み、この地での出来事に思いを馳せ、この地を後にしました。
そのまま北高尾山稜と呼ばれ、高尾山の北側に位置する東西へ伸びる尾根道へ向かうのですが、その途中の山中にも八王子城の遺構が複数有りました。
北高尾山領と高尾山の間には昔の甲州街道が有り、其方からの攻撃に備えた物です。
堀切と呼ばれる尾根を削って鞍部にした場所や小さなピークの上に建築物を構築した跡。
それに伴い、周囲の地形を変えた跡等・・・。
上杉景勝軍と前田利家軍によって落城したのですが、城の裏手であるこちら側から攻め込まれはしなかったので、多くの敗残兵がこの尾根道を伝って逃げて来たのではないかな?
そんな事を思いながら歩いていました。
高尾山の騒々しさに比べると、隣の北高尾山領の静けさは異様な位。
直ぐ真向かいの山なのにね・・・。
北高尾山稜に合流した場所にベンチが有り、休憩にしました。
ガスでお湯を沸かしてコーヒーを1杯。
お湯を沸かしながら、荷造りやらおやつの準備を気分良く歌を口ずさみながらしていたのですが、其れは「誰も居ない(通らない)」と思っていたから。
ベンチからは見え難い左手(南側、高尾山口側)からいきなり人が現れたのにビックリ!
そしてチョッと気まずかった・・・。
気を付けねば・・・。
北高尾山稜を東に向かい、出て来たのは小仏関所横。
バスの時間迄は関所跡の見学をしていました(写真の空き地)。
夏場は此処に盆踊り用の櫓が設置されるんだよなぁ。
史跡も地域の住人の方々に役立っていると言う事か。
実家の近くには円墳が有るのですが、周囲は森で夜は車以外では通りたくない暗い場所。
あそこも盆踊りの会場にでもすれば、少しは愛着・親近感が湧く場所になるかな?
でも、「夜に墓場の周りを皆で踊りながら囲む」何て、何だか「怪しい儀式」みたいになってしまうか・・・。
「日本100名城」と言う触れ込みからすると、麓の御主殿周辺以外は、人気の少ない普通の低山と言う感じの山でした。
御主殿周辺の整備も極最近された様です。
訪れたのが冬と言う事も有りますが、草が生い茂っている等、道が荒れている印象は受けませんでした。
御主殿の整備と併せて「登山道の整備」も行われたのではないかと思います。
発掘調査も未だ途中との事なので、今後も更なる大々的な整備もされるのではないかと思います。
唯、市の財政状況によっては後回しにされると思いますが・・・。