八王子城山へ行って来た。
八王子城山は、JR八王子駅の北側に位置する山だ。
城山と言うだけあって、かつて八王子城がこの地に有ったことがその名の由来。
因みに周囲には同じく「城山」と呼ばれる山が有り、高尾山の西側、相模湖畔に有る城山が小仏城山(こぼとけしろやま)、津久井湖沿いに有る城山は「津久井城山」と呼んで区別している。
何れも山城が有った山で、其れが山名の由来になっている。
今回はそんな歴史の有る地の散策記だ。
ゆきさんは仕事なので、1人の行程なのが残念だ。
城主になりきって、共に山頂から麓の城下町を眺めたかったのになぁ。
勿論、城主はゆきさんで、私は従者(小間使い・荷物持ち)ですが・・・。
因みに、今回は道ずれに「宇宙人?」を連れての行程だ。
其れについては、後程触れる事にする。
因みに写真のお侍?は「氏照(うじてる)クン」。
道端の地図に描かれていたキャラクターで、八王子城を築城した北条氏照をマスコット化した訳だ。
・・・今話題のユルキャラなのか?
初めて見たし、存在を知ったのこの日が初めて。
八王子市は「氏照クン」で町興しをしようとしているのか?
・・・謎だ!!
八王子北口からバスに乗り、霊園前バス停で下車する。
周囲には複数の大規模墓地が並んでおり、墓地タウンと言う感じ。
この一角がもっと荒れた廃墟の様な墓地になると、オカルト映画に出てくる様な様相になってしまいそうだ。
写真はバス停から30分程歩いた場所に有る八王子城への入口。
建物は「トイレ」兼「パンフレットの配布場所」兼「説明をしてくれるボランティアの方の詰め所」で、資料館としての役割は果たしておらず、この城についての話や発掘調査時の事や当時の関東の状況については、建物の向かいに有る案内板に記されている。
案内板には八王子城の全体図(写真)も記されている。
これは分かり易い。
今は木々に覆われた山だが、当時は所々木が切り払われていて建物が建っていた訳だから、遠くから見ても異なる姿だっただろう。
案内板からは山頂へ向かう道と山裾を川に沿って進み、城主(北条氏照)の住居兼執務をする場として使用していた御主殿(ごしゅでん)へ向かう道が有る。
先ずはその御主殿を見学してから山に登る事にした。
写真は川に架かる橋。
此処が御主殿へ向かう道の入口だ。
今は川幅の割りにチョロチョロと水が流れる程度の小川だが、当時は水を堰き止めたり、川をもっと深く掘り下げて道との高低差をつけていたのではないかと思う。
山腹の道を登って行くと見えるのがこの橋。
再度川を渡り、その先に御主殿が有るのだが、今度の橋は河原から遥かに高い所に橋が架かっている。
実はこの橋は想像(予測)から再現された物で、発掘調査では土台と両岸の石垣、河原を防衛目的の為にわざと掘り下げていると言う事が分かっただけとの事。
実際の橋は、攻め込まれた際に橋を落せる様にもっと簡素な橋だったと考えられているそうだ。
唯、それでは安全上の問題が有るのだろうし、見学者や観光客への「見栄え」の問題も有るのだろう。
再現された橋は非常に立派な物だった。
これが橋の入口。
薙刀(なぎなた)を構える弁慶と牛若丸が激しく動き回っても十分な広さ(幅・長さ)が有る橋だ。
“ゆきさん”が居れば「弁慶ごっこ」が出来たのになぁ・・・。
薙刀(ほうき)を片手に橋の中に仁王立ちする“ゆきさん”・・・迫力十分です!!
橋の上から御主殿側を見た光景。
川から御主殿側には石垣が築かれ、簡単には登れない様になっています。
橋を渡ると目の前は石垣で(写真左の石垣)、道は右に直角に曲がります。
その両側は石垣に囲まれ、道はその先で左に直角に曲がります。
此れは山口県の萩でも見られる鍵曲がりと呼ばれる物で、わざと道を曲げて敵兵が進む速度を抑えると共に、敵からは行く先の見通しを悪くしているのです。
そして石垣に囲まれたこの道は「袋の中の鼠」同様で、写真左手の御種殿から狙い撃ちにする場所でもあります。
左に曲がると其処は上り階段に。
上ってから振り返るとこんな感じ。
なかなか高低差が有ります。
階段は段差が有り、1段1段の幅(段と段の距離)が広く取られていて1歩で1段を歩くには幅が有ります。
此れも攻め難くする為の物なのでしょう。
簡単に1歩、2歩と階段を上れず、その間に壇上から鉄砲や弓で狙い撃ちにするのでしょう。
階段を上りきった場所を左に曲がると御主殿の門が有ります。
門の先には広い芝生の庭が。
「おおっ!氏照クンのお屋敷は、芝生の庭付きなのか!」
・・・っな訳は無い。
此処が御主殿跡で、発掘調査の後埋め戻されて広場の様になっているだけだ。
この場所からは、青磁の坪や西洋ガラス等、戦国時代の城主とその家族の暮らしが戦々恐々とした時代であるながらも、海外から来た美術品を楽しむ一面も有った事を明らかにした。
此処で政務を行ったのだが、発掘調査が行われていない更に奥の山中に生活の場となる屋敷が広がっていたのではと考えられているそうだ。
いざ発掘調査を行っても何も見付からないかも知れない。
調査により、意外な発見や様々な生活物資や美術品が出てくるかも知れない。
落城の際の火事で、発見された陶磁器は焼け焦げていたので、紙や木製の物は見付からないと思うが、周辺の土壌の中から火災の影響を受けていない物が見付かるかも知れない。
城主氏照の肖像がは、氏照クンに似ているのかどうなのか?
出来る事なら様々な物・新事実が見付かって欲しいものだ。
昼食はこの御主殿跡で。
時折人が訪れるが、山歩きや此処が目的の散策をしている人ではなさそう。
「近くに用(墓参り?)が有り、序でに寄ってみた」
と言う感じの普段着の御夫婦だとか、
「外回りの序でに寄った(寄り道)」
と言う様子のスーツ姿の男性とか・・・。
訪れる人は殆どがそう言った方々ばかり。
「大規模な公園の芝生広場」と言った感じの場所だが、滅多に人が訪れないので静寂に包まれた場所だ。
真ん中を広々と占拠しても良いのだが、其処は小市民(庶民)の私。
何だか落ち着かないので、端っこに座ってしまう。
朝食は高尾駅前のマクドナルドで購入したハンバーガー。
写真のフリ丸と一緒の昼食でした。
※フリ丸は横浜FCのマスコット。序でに横浜FC用のブログで使う写真を撮影していた訳です。
御主殿跡の端っこから見た光景。
庭や屋敷の周りの通路部分の敷地を設けたとして、屋敷自体はどの位の規模だったのかな?
此処は発掘調査が済んだ場所だが、更に山の傾斜部分については未調査との事。
その部分に住居(生活)部分が有ったと考えられていると看板に記されていた事を考えると、相当な規模の建物になる。
非常に短期間の使用期間だった八王子城で、落城後は廃墟となって歴史に埋もれていただけに謎や未知の部分が多い。
とは言え、此処に何千もの人々が居り、様々な事を思い、考え、生き、そして亡くなっていった事を考えると彼是考え込んでしまう。
現在の御主殿跡の芝生を主に訪れるのは野鳥達。
此れはイカル。
10羽以上の群れて地面に落ちている草の種を啄ばんでいました。
御主殿跡の前に有る川には御主殿の滝。
訪れたのが真冬で、水量が少ない事も有ってチョロチョロっとした流れの小さな滝。
城が有った当時は、この上流部を堰き止めて池にして船を浮かべて楽しんだとの事。
落城時には、女性や子供等が此処に身を投げて命を絶ち、川は三日三晩その血液によって赤く染まったとの事。
現在歴史ブームで「歴女」と言った流行語も生まれているが、歴史の中で起きた事やその背景、裏舞台で流れた涙や血・苦労と言った事を思うと彼是様々な事を考えさせられるし、今の時代に置き換えて感じる事も有る。
う~ん、一人出来たからかな?
より感傷的になってしまった。
・・・これから山登りなのだけど、気分を上げていかないと辛いのだけれど・・・。
八王子城山は、JR八王子駅の北側に位置する山だ。
城山と言うだけあって、かつて八王子城がこの地に有ったことがその名の由来。
因みに周囲には同じく「城山」と呼ばれる山が有り、高尾山の西側、相模湖畔に有る城山が小仏城山(こぼとけしろやま)、津久井湖沿いに有る城山は「津久井城山」と呼んで区別している。
何れも山城が有った山で、其れが山名の由来になっている。
今回はそんな歴史の有る地の散策記だ。
ゆきさんは仕事なので、1人の行程なのが残念だ。
城主になりきって、共に山頂から麓の城下町を眺めたかったのになぁ。
勿論、城主はゆきさんで、私は従者(小間使い・荷物持ち)ですが・・・。
因みに、今回は道ずれに「宇宙人?」を連れての行程だ。
其れについては、後程触れる事にする。
因みに写真のお侍?は「氏照(うじてる)クン」。
道端の地図に描かれていたキャラクターで、八王子城を築城した北条氏照をマスコット化した訳だ。
・・・今話題のユルキャラなのか?
初めて見たし、存在を知ったのこの日が初めて。
八王子市は「氏照クン」で町興しをしようとしているのか?
・・・謎だ!!
八王子北口からバスに乗り、霊園前バス停で下車する。
周囲には複数の大規模墓地が並んでおり、墓地タウンと言う感じ。
この一角がもっと荒れた廃墟の様な墓地になると、オカルト映画に出てくる様な様相になってしまいそうだ。
写真はバス停から30分程歩いた場所に有る八王子城への入口。
建物は「トイレ」兼「パンフレットの配布場所」兼「説明をしてくれるボランティアの方の詰め所」で、資料館としての役割は果たしておらず、この城についての話や発掘調査時の事や当時の関東の状況については、建物の向かいに有る案内板に記されている。
案内板には八王子城の全体図(写真)も記されている。
これは分かり易い。
今は木々に覆われた山だが、当時は所々木が切り払われていて建物が建っていた訳だから、遠くから見ても異なる姿だっただろう。
案内板からは山頂へ向かう道と山裾を川に沿って進み、城主(北条氏照)の住居兼執務をする場として使用していた御主殿(ごしゅでん)へ向かう道が有る。
先ずはその御主殿を見学してから山に登る事にした。
写真は川に架かる橋。
此処が御主殿へ向かう道の入口だ。
今は川幅の割りにチョロチョロと水が流れる程度の小川だが、当時は水を堰き止めたり、川をもっと深く掘り下げて道との高低差をつけていたのではないかと思う。
山腹の道を登って行くと見えるのがこの橋。
再度川を渡り、その先に御主殿が有るのだが、今度の橋は河原から遥かに高い所に橋が架かっている。
実はこの橋は想像(予測)から再現された物で、発掘調査では土台と両岸の石垣、河原を防衛目的の為にわざと掘り下げていると言う事が分かっただけとの事。
実際の橋は、攻め込まれた際に橋を落せる様にもっと簡素な橋だったと考えられているそうだ。
唯、それでは安全上の問題が有るのだろうし、見学者や観光客への「見栄え」の問題も有るのだろう。
再現された橋は非常に立派な物だった。
これが橋の入口。
薙刀(なぎなた)を構える弁慶と牛若丸が激しく動き回っても十分な広さ(幅・長さ)が有る橋だ。
“ゆきさん”が居れば「弁慶ごっこ」が出来たのになぁ・・・。
薙刀(ほうき)を片手に橋の中に仁王立ちする“ゆきさん”・・・迫力十分です!!
橋の上から御主殿側を見た光景。
川から御主殿側には石垣が築かれ、簡単には登れない様になっています。
橋を渡ると目の前は石垣で(写真左の石垣)、道は右に直角に曲がります。
その両側は石垣に囲まれ、道はその先で左に直角に曲がります。
此れは山口県の萩でも見られる鍵曲がりと呼ばれる物で、わざと道を曲げて敵兵が進む速度を抑えると共に、敵からは行く先の見通しを悪くしているのです。
そして石垣に囲まれたこの道は「袋の中の鼠」同様で、写真左手の御種殿から狙い撃ちにする場所でもあります。
左に曲がると其処は上り階段に。
上ってから振り返るとこんな感じ。
なかなか高低差が有ります。
階段は段差が有り、1段1段の幅(段と段の距離)が広く取られていて1歩で1段を歩くには幅が有ります。
此れも攻め難くする為の物なのでしょう。
簡単に1歩、2歩と階段を上れず、その間に壇上から鉄砲や弓で狙い撃ちにするのでしょう。
階段を上りきった場所を左に曲がると御主殿の門が有ります。
門の先には広い芝生の庭が。
「おおっ!氏照クンのお屋敷は、芝生の庭付きなのか!」
・・・っな訳は無い。
此処が御主殿跡で、発掘調査の後埋め戻されて広場の様になっているだけだ。
この場所からは、青磁の坪や西洋ガラス等、戦国時代の城主とその家族の暮らしが戦々恐々とした時代であるながらも、海外から来た美術品を楽しむ一面も有った事を明らかにした。
此処で政務を行ったのだが、発掘調査が行われていない更に奥の山中に生活の場となる屋敷が広がっていたのではと考えられているそうだ。
いざ発掘調査を行っても何も見付からないかも知れない。
調査により、意外な発見や様々な生活物資や美術品が出てくるかも知れない。
落城の際の火事で、発見された陶磁器は焼け焦げていたので、紙や木製の物は見付からないと思うが、周辺の土壌の中から火災の影響を受けていない物が見付かるかも知れない。
城主氏照の肖像がは、氏照クンに似ているのかどうなのか?
出来る事なら様々な物・新事実が見付かって欲しいものだ。
昼食はこの御主殿跡で。
時折人が訪れるが、山歩きや此処が目的の散策をしている人ではなさそう。
「近くに用(墓参り?)が有り、序でに寄ってみた」
と言う感じの普段着の御夫婦だとか、
「外回りの序でに寄った(寄り道)」
と言う様子のスーツ姿の男性とか・・・。
訪れる人は殆どがそう言った方々ばかり。
「大規模な公園の芝生広場」と言った感じの場所だが、滅多に人が訪れないので静寂に包まれた場所だ。
真ん中を広々と占拠しても良いのだが、其処は小市民(庶民)の私。
何だか落ち着かないので、端っこに座ってしまう。
朝食は高尾駅前のマクドナルドで購入したハンバーガー。
写真のフリ丸と一緒の昼食でした。
※フリ丸は横浜FCのマスコット。序でに横浜FC用のブログで使う写真を撮影していた訳です。
御主殿跡の端っこから見た光景。
庭や屋敷の周りの通路部分の敷地を設けたとして、屋敷自体はどの位の規模だったのかな?
此処は発掘調査が済んだ場所だが、更に山の傾斜部分については未調査との事。
その部分に住居(生活)部分が有ったと考えられていると看板に記されていた事を考えると、相当な規模の建物になる。
非常に短期間の使用期間だった八王子城で、落城後は廃墟となって歴史に埋もれていただけに謎や未知の部分が多い。
とは言え、此処に何千もの人々が居り、様々な事を思い、考え、生き、そして亡くなっていった事を考えると彼是考え込んでしまう。
現在の御主殿跡の芝生を主に訪れるのは野鳥達。
此れはイカル。
10羽以上の群れて地面に落ちている草の種を啄ばんでいました。
御主殿跡の前に有る川には御主殿の滝。
訪れたのが真冬で、水量が少ない事も有ってチョロチョロっとした流れの小さな滝。
城が有った当時は、この上流部を堰き止めて池にして船を浮かべて楽しんだとの事。
落城時には、女性や子供等が此処に身を投げて命を絶ち、川は三日三晩その血液によって赤く染まったとの事。
現在歴史ブームで「歴女」と言った流行語も生まれているが、歴史の中で起きた事やその背景、裏舞台で流れた涙や血・苦労と言った事を思うと彼是様々な事を考えさせられるし、今の時代に置き換えて感じる事も有る。
う~ん、一人出来たからかな?
より感傷的になってしまった。
・・・これから山登りなのだけど、気分を上げていかないと辛いのだけれど・・・。
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