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『よし』・『ゆき』、我が家に住むペンギン?の「ペン太」の散策記です!

母の旅立ち

2015-11-12 01:36:39 | 徒然なるままに(雑記)

 帰宅後、風呂を済ませ、夕食を摂っていた時に電話が鳴った。
うちは電話回線が2台有り、我々がいる部屋に有る電話番号を知っているのは、私の親と姉、数人の友人、会社の直属の上司と同僚、契約している電話会社とスカパー、カミさんの友人と会社の人くらいで、滅多に電話がなる事は無い。

 「会社で話があがっている『21日の飲み会』の話かな?」

と思って電話を取ると、そうではなく、姉からだった。

 『もう何年も入院している母の具合が悪い』との事。
腫瘍が見つかって手術が必要で、国立病院に転院したそうだ。
手術をしなければならないが、体力が落ちていて手術が出来ない。
癌かどうか切らなければわからないが、検査で腫瘍が有る事が分かった。
意識が有る時と無い時が有り、今日は反応が無かった。
何時どうなるか分からないから、生きている内に来なさい。

との事だった。
 
 入院は前の前の部署に居た頃だから、2010年か2011年だったかな?
もっと前だったっけ?
目も見えなくなっているし、まともな会話にもならず、場が持たない。
行っても眠っていた事が2~3回有り、最後に行ったのも2~3年前だ。
会話をしたとなると、更にそれ良い前になる。

 流石に今回は顔を出すか。
明日は定時で上がらせてもらって、会いに行ってみよう。
でも、また眠っているだろうなぁ。


 そう思っていたのだが、それから数時間が経ち、今から10分ほど前(24時30分過ぎ)に再び電話が。

 「こんな時間に、と言う事は…」

案の定、電話は姉からだった。
 「ついさっき、お父さんから電話が有った」
 「病院から電話が有り、急に心拍数が下がったって」
 「今から病院に向かうけれど、来れる?」

 今日はうちの部署の大将は休みで、その下の立場に居る自分が対応したので、伝達事項や指示を仰いで処理をする仕事が複数有る。

今から病院へ向かい、
 「幸い、大丈夫だったから帰って一眠りして会社に行く」
と言うのは時間的に厳しいし、仕事に穴を開ける訳にもいかない。

 「病院に行って、もう少ししっかりとした状況が分かってから連絡をもらう」
と言う事にしてもらった。

 で、今(25:00 ちょうど)電話が鳴った。

 「と言う事は……」

姉だった。
 姉「今、息を引き取った」
 私「今何処に居るの?」
 姉「病院。お父さんも私も間に合わなかった」
 私「そうか」
 姉「葬式とか、その後の事はまた連絡入れるね」

 間に合わなかったか…。
息子が数年ぶりに顔を見せ、今度は寝ていようが叩き起こすし、話が噛み合わなかろうが何だろうが話をしようって言うのに。
18時に仕事を上がり、道に迷いながらも19時頃には到着していただろうに。

 あと18時間。
病院で何年もボーッとして、殆ど寝てばかりいた月日に比べれば、たった18時間だと言うのに。
待ってくれなかったか・・・。

 最後まで噛み合わなかったなぁ~。

 ボケたまま逝ってしまったか・・・。

 最後に親として、人生の先輩として1人の人間として言葉や教えを貰いたかったというのに。


 母が最初に鬱を発症したのは、私が小学6年の時だった。
その後、持ちなおしたり、再び悪くなったり・・・と言うのを数年単位で繰り返した。

 私の結婚式にもドタキャンして欠席し、1人家で留守番をしていた。
その後、久し振りに実家に顔を出した際、「歩き方が変だな」と思ったら、その時には白内障で、ろくに目が見えなくなっていたそうだ。
糖尿病で、鬱をもち、白内障を発症したが、通院していても途中で通院をやめてしまったり、食事制限を守らなかったり・・・。
家族が働いている以上、母に付きっきりでいられないだけに、本人の行動を常に見らえれ訳がない。

 まぁ、全て鬱がそうさせていたのだけれど…。

 寝たきりからの回復が望めない中、最後迄入院したままになる事は皆分かっていた。
どんどんボケていき、見た目も中身も人間からかけ離れていく母は、月々の多額の入院費もあって
 「善悪で考えると、その日が早く来た方が良いとしか言えない」
っと言うものだった。

 とは言え「家族、親子」と言うのも他に代えられるものが無い大きなものだ。
何が有っても、切っても切れない物だ。
どんなに怒ろうが、憤りを感じようが、こんなに歳の離れた人間同士でこんな心情でいられる、付き合える人間は他に居ない。

 私に子供が居れば、次に生まれる、引き継げる新たな関係性が有るから、そうは思わないのだろうが、子供が居ない以上、親子・家族と言う関係は、どんどん失うだけの存在である。

 今日その1人を永遠に失った。
もう、まともな関係ではなかったとはいえ、それでも私の親であった。
息を引き取ったのが日付をまたいだのであれば、今日11月12日は、母の69歳の誕生日だ。

 夕食の際にカミさんと「明日は母の誕生日だな」と言う話をし、「会いに行くなら丁度良いでしょ!」と言われた。

11月12日に生まれて、同じ日にこの世を去ったのか?

それとも11月11日にこの世を去り、68年と365日を、68歳としての最後の日をギリギリまで過ごしてこの世を去ったのか。

 まぁ、覚えやすいし、分かりやすい生き方だな。

 実家に居る事は、母に対しての葛藤が大きいものだったが、実家を離れてからはそうでなくなった。
母の病を受け入れる事が出来たと言う訳ではないが、「弱い人間」だった母の気持ちも分からないではないし、

 「大なり小なり自分も母の病の原因の1つになっている」

と言う事に罪悪感も有った。

 「もう少し何か出来たのではないか」

と言うのも有った。

 母方の祖父母、父型の祖母の時もそうだったけれど、「万全を期す」、「悔いを残さない」って難しいな。

 電話先の姉と違い、予想通り私は涙も出ないし、悲しいという感情も起きない。
唯、「永遠に失った存在」が有る事に何だか寂しさを感じるのと、「出来なかった彼是」に『悔い』を感じている。


 「良い事も悪い事も含めて今では全てに感謝している」
 「おつかれさま」

これを直接伝えたかった。
 



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