ある時、飲み会で若いスタッフが、「Мさんって、今まで何かに感動した
ことがありますか?」という質問があった。「当然あるよ」と、言ったら、
へ~と、疑心暗鬼な顔。「Мさんは話しやすいし、話題も面白いのですが、
どこか深い影がありません?」と、若いスタッフ。うーん、俺のことをよ
く見ている。
それは両親がいなかったという生い立ちから来ているのか、それともDNA
に刷り込まれた性格なのか、自分でも分からない。優しい部分と、ダーク
な部分がある…と昔付き合った彼女に言われた。自分では気づかない部分
だった。
その俺が、今まで一番感動したこと。それは、友人からの電話だった。
その友人は東京、府中市に住むNだった。彼とは仕事の出張で知り合った
が、年間30日ぐらい一緒になった。東京と大阪、水と油だと思うだろうが、
彼がやさしく素直、そして大酒飲み。6歳下だったが、たちまち意気投合
した。
埼玉県の大宮市(今のさいたま市?)に行った時、5時から飲み始め、居酒
屋、スナック、ラウンジと続き、最後に中華屋に入った。その時の彼の注
文は今も忘れない。総勢4名の飲み会だったが、3軒はしごして、全員へろ
へろである。メンバーの一人が、「腹が減った。明日元気に出勤するため
に、飯が食いたい」と言ったので、中華屋に入ったのだ。
「えーと。4人だから、紹興酒4本と、餃子4人前、それから…」と言った
のだ。紹興酒のボトル4本?深夜1時で各人、紹興酒のボトル(720ml)一本?
「お前、俺らアルコール中毒で殺す気か?」と怒鳴ったのを思い出す。
その時、「いや、最後だから、そのくらい飲めると思って…」と、首を
傾げていた。「この男、化けもんや」と、思ったのも当然である。
そのNが、朝のシャワー中に倒れた。くも膜下だったらしい。脳内の血管
が切れたのである。これは70%以上の死亡率だと知った。大阪から仲間と
東京都稲城市の病院に見舞いに行った。その時の状況があまりにも酷過ぎた。
案内してくれた看護婦さんが、悲壮な顔をして、「彼は今も戦っています」
と言った。集中治療室のベッドで、Nは無意識でのたうちまわっていた。
全身を痙攣させ、奇声を発していた。それを見て、俺は涙が流れた。
「N、N!」と彼の名前を呼んだ。でも、看護婦さんは、「……
」と、気の毒そうに俺を見た。
帰りの新幹線がしんどかった。ウィスキーのボトルを買ってぐいぐい飲ん
だ。見舞いに同行した連中も飲んだ。そして、「Nと会うのも今日が最後に
なりそうやね」と、悲しんだ。誰もが彼はもうすぐ亡くなる…と思ってい
たのだ。
それから2ヶ月後、会社に電話が掛かった。「Мさん、電話ですよ」と女性
スタッフ。電話に出た。「お久しぶりです。お元気ですか?」と、相手は
言った。「はあ?」と、俺は誰からの電話なのか、まったく分からなかった。
「Nですよ。もうすぐ、退院します」、「はあ?」、俺はまだ信じられ
なかった。だけど、その声には確かに聞き覚えがあった。「N?本当!本当
にN?」と、俺は聞いた。「そうです、Nですよ。N野です!」、相手は明快
に答えた。
俺はふるえた。全身から汗が噴き出した。「おい、お前は地獄から生還した
のか?」、俺の語気が荒くなった。「そうです、生還しましたよ」と、Nは
答えた。その時ほど感動したことはない。「まさか、あの世から電話して
きたのではないのだろうな」と、冗談が出た。これは、本当の出来事だと、
安堵した証だった。
「大丈夫です。今、病院の待合室から電話しています。看護婦さんから聞き
ました。お見舞いに来てくださったそうですね」と、彼の声は生気に満ちて
いた。「ずっと意識不明だったので、自分としてはあっという間でした。で
も、サッカーのワールドカップが終わっていたので、時間を感じました」と、
明快な答え。
俺はこれを見舞いに行った友人に伝え、その日、乾杯、乾杯で朝まで飲み明
かした。
あれから7年になるが、彼とは大阪、東京を行き来して、今でも一年に2,3回
は飲み会をしている。それが現在の、一番の楽しみである。今年は、彼の生
地である新潟旅行をと考えている。
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