MY LIFE AS A DOG

ワイングラスの向こうに人生が見える

修行論

2013年08月30日 23時49分43秒 | 読書
内田樹の「修行論」を読む。

感銘を受けた箇所を一部抜粋する。

『20世紀の、戦争と強制収容所の歴史的経験から、レヴィナスが学んだことのひとつは、
悪とは「人間的スケールを超えること」だということであった。

あらゆる非人間的な行為は、人間の等身大を超えた尺度で「真に人間的な社会」や「真に人間的な価値」を作りだそうと願った人たちによって行われた。自分の生身が届く範囲に「正義」や「公正」の実現を限定しようとせず、自分が行ったこともない場所、出会うこともない人たち、生きて見ることのない時代にまで拡がるような「正義」や「公正」を実現しようとした人たちは、ほとんど例外なく、世界を人間的なものにする事業の過程で、非人間的な手段(抑圧や追放や粛清)を自分に許した、

巨大なスケールの善をなすためには、小さな悪を犯すことは正当化される。
かつてレヴィナスは、人間的スケールを超えた正義の実践についてこう述べたことがある

「個人的な慈悲なしでも私たちはやっていけると考える人がいます。慈悲の実践には個人的な創意が必要なのですが、そんなものはなくてももよいのだ、と。そのつどの個人的な慈悲や愛の行為を通じてしか実現できないものを、永続的に、法律によって確実ものにすることができると考えること、それがスターリン主義です。スターリン主義は正しい意図から出発しましたが、管理の暴力のうちに崩れ落ちてしまいました。」

そのつどの個人的なコミットメントに頼ることなく、制度として正義と慈愛を実践する社会システム、それはあらゆる権力者に取り憑く夢想の一種である。

しかし、歴史上かつて一度として、「生身の人間の関与抜きの、非人称的・官僚的な正義と慈愛」が実現したことはない。それは正義と慈愛は本質的に食い合わせが悪いからである。

悪を根絶するというタイプの過剰な正義感の持ち主は、人間の弱さや愚かさに対して必要以上に無慈悲になる。逆に慈愛が過剰な人が、邪悪な人間を無原則に赦してしまうと、社会秩序はがたがたになる。

社会が十分に正義でありながら、かつ十分に手触りの優しいものであるためには、人間の生身が必要である。正義が過剰に攻撃的なものにならないように、バランスを取ることができるのは生身の人間だけである。

そういうデリケートなさじ加減の調整は、身体を持った個人にしかできない。法律や規則によって永続的に「正義と慈愛のバランスを取る」ことはできない。

今自分がいる世界が、十分に公正でかつ十分に慈悲に満ちた世界でないとしたら、どちらの要素がどれだけ足りないのか、何をどう付け加え、何を抑制したらいいのかという判断は、人間の皮膚感覚にしか任せることができない。それが判定できるような身体を持つこと、それが霊的成熟である。レヴィナスはそう考えていたのだと思う。

信仰が根付き開花するのは、人間の生身においてであるということ、信仰がめざすのは霊的な成熟であるということ、それがレヴィナスのもっともたいせつな教えであるということに気づいたときにようやく、レヴィナス哲学と武道修行の間の本質的な同一性を言葉で言い表せる見通しがついた。
ほんの入り口に過ぎないが、そこにたどりつくためにさえ、私には30年を超える時間が必要だった。』

実に深い。。

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