ヒューストンのダウンタウンから南に数マイルほど下ったところにRiliant Stadiumという名のアメフト球技場がある。数年前このRiliant Stadiumでスーパーボウルが開催された際に、ダウンタウンとスタジアムの間に、お客を輸送するための路面電車が敷設された。それまで車以外の交通手段がほとんどなかったヒューストンっ子たちにとってこの路面電車の出現は大きな事件であったようだ。
ヒューストンは全米第4の都市であるが交通事情は非常に悪い。日中はそこら中で大渋滞が起き、しかも、日本と違い信号機がよく壊れる。一旦信号機が故障してしまうと、ただでさえ通過の悪い幹線道路がますます流れなくなってしまうのだ。であるから、信号をほぼ無視しつつ軽快に路上を疾走する近未来型デザインのその乗り物は結果的に多くの人々の人気を博すこととなった。何を隠そうかくいう僕も毎日の通勤にこの路面電車を使わせてもらっている。
しかし、この路面電車に乗る時にいつも不思議に思うことがある。
なんと、この路面電車のすべての駅には駅員がいないばかりか改札口すら存在しないのである。ホームは道路の真中に盛り土をしてその脇に線路をしいただけの極めて簡素な構造をしていて、柵すらないので、どこからでもホームの外に下りることが出来る。まして車内における検札があるわけでもないので早い話、乗客が料金を支払っているかどうかを確認する手段は一切ないと言っていいのだ。
確かにホームには券売機がぽつんと一台置かれてはいるし、“You must purchase your ticket before boarding the train!”というアナウンスがひっきりなしに流れているので、どうやら乗客を只で乗せるつもりはないようなのだが、それにしてもこれだけいいかげんな管理状況の中でわざわざ金を払って乗るような奇特な人間がいるのだろうか?というのが僕の正直な印象であった。
幸い僕は、日本に帰国してしまった友人から当分の間有効な乗車パスを譲り受けたため、形式上は無賃乗車を免れてはいるが、もちろんそのパスの提示を求められたことも一度もないので、別段パスを持っている必要性すら感じないのである。であるから、もしそのパスをアパートに忘れたとしても、僕はおそらく平気な顔で電車にのっかるだろう。
しかし!!なぜだろうか、他のお客達は何の疑いもなく一台しかない券売機の前に整然と並んで切符を買い求めているではないか。
もちろん「そんなの当たり前だろ?」といわれればそのとおりなのだが、僕にはそれがとても不思議な光景に感じられたのである。
だって駅員もいなければ、改札口すらないのだ。切符なんて買わなくたって絶対に誰からも咎められることはないのに、なぜか皆粛々と切符を買っている。
ズルしようという人間がいたってちっともおかしくないだろうに、、、、。
いや、ズルをして無賃乗車をしている人間はきっといるに違いない。しかし、僕の見ている限りそういう人間はほんのごく一部であるように思われた。
そもそも日本だったらこんなイージーなシステムはまず絶対にありえないのではないだろうか。少なくとももしこれが日本だったら、ホームに柵を作って出口に自動改札を設置するぐらいのことはやるだろう。そうでもしなければ無賃乗車し放題になってしまうに違いない。
なのに、この人たちはどうしてそんなに道徳的でいられるのだろうかと、彼らを見ながらなんとも非道徳的な感情にとらわれてしまう僕であったのだが、そんなある日、僕はある同僚の女性とこの件に関して話をする機会に恵まれた。
僕が、「こんな話をすると、非道徳的な奴だと思われるかもしれないが、ここの路面電車のシステムは僕にはすごく不思議に思える。だって、切符を持ってるかどうかなんて誰も見てないのにどうしてみんなあんなにまじめに切符を買ってるんだろうか?日本じゃ絶対こんなイージーなシステムはありえないと思う」とたずねると
それに対する彼女の答えはこうであった。
「本当に誰も見てないと思う?」
「。。。。。」
情けないことに彼女にこういわれても僕はしばらくその意味がわからなかった。
以前このブログでも The Politic Compassというサイトを紹介したことがある。
いくつかの質問に答えていくことで自分の政治的位置がわかるという興味深いサイトだ。
まだ、挑戦したことのない方は是非お試しいただきたいのだが、
その質問の中にこんなのがあったことを彼女の返事を聞いた後に思い出した。
“You cannot be moral without being religious.”
はじめてこの問いに遭遇したとき、僕は何の迷いもなく strongly disagreeにチェックをした。
宗教がなければ人間が道徳的ではいられないなどということは断じてありえないと思ったからだ。現在多くの日本人は具体的な宗教を持ち合わせていないのではないかと思うし、僕もその一人であると自覚はしている。しかし、自分は十分道徳的であると思っているし、自分が道徳的であるために何らかの宗教の力が必要だなどとは露ほども考えたことはなかった。
「ってことはつまり、彼らは自分達の行動を神が見ていると考えているのか?」
「そう。信心深い典型的なテキサン(テキサスに住むアメリカ人のこと)だわ。」
「。。。。。」
そのときの彼女の一言は僕には非常に重く響いた。
そして、それに追い討ちをかけるようにその数日後、職場の一室でギリシャ人フェローからこういう質問を受けた。
「そういえば、ずいぶん前に読んだんだけど、日本では女子高生の売春行為が社会問題になってるんだってね。びっくりしたわ。そりゃギリシャにだって売春婦はいるけど、あくまでそれは売春を生業とする人たちであって、一般の女子高生がバッグ欲しさに売春行為をするってちょっと信じられないわ。」と。
するとすかさずその横からタイ人の男性フェローが突っ込みを入れた。
「バンコクには、毎年すごい数の日本人男性観光客が女性を買いにやってくるんだよ。でも、どうして?日本って仏教の国でしょ?仏教の世界ではこういうのは非道徳的じゃないのかな」と
でた。。。。また宗教の話だよ。。と思いつつ。
「いや。そりゃ、どちらかといえば仏教の国かもしれないが、多くの日本人は基本的には無宗教だよ」と答えると
「そうか。じゃあ、きっとその無宗教が問題なのかもな」と能天気なタイ人。
日本人の多くが宗教心に欠けているのはそのとおりかもしれない。しかし、それと援助交際を結びつけるのもずいぶん突飛な話だなーという気もする。さりとてそれを積極的に否定する材料はどこにもない。
いずれにせよ例の路面電車の一件以来少なくとも僕は“宗教を持たない者は道徳的たり得ない”という命題に対してstrongly にdisagreeする自信をなくしてしまったのである。
ヒューストンは全米第4の都市であるが交通事情は非常に悪い。日中はそこら中で大渋滞が起き、しかも、日本と違い信号機がよく壊れる。一旦信号機が故障してしまうと、ただでさえ通過の悪い幹線道路がますます流れなくなってしまうのだ。であるから、信号をほぼ無視しつつ軽快に路上を疾走する近未来型デザインのその乗り物は結果的に多くの人々の人気を博すこととなった。何を隠そうかくいう僕も毎日の通勤にこの路面電車を使わせてもらっている。
しかし、この路面電車に乗る時にいつも不思議に思うことがある。
なんと、この路面電車のすべての駅には駅員がいないばかりか改札口すら存在しないのである。ホームは道路の真中に盛り土をしてその脇に線路をしいただけの極めて簡素な構造をしていて、柵すらないので、どこからでもホームの外に下りることが出来る。まして車内における検札があるわけでもないので早い話、乗客が料金を支払っているかどうかを確認する手段は一切ないと言っていいのだ。
確かにホームには券売機がぽつんと一台置かれてはいるし、“You must purchase your ticket before boarding the train!”というアナウンスがひっきりなしに流れているので、どうやら乗客を只で乗せるつもりはないようなのだが、それにしてもこれだけいいかげんな管理状況の中でわざわざ金を払って乗るような奇特な人間がいるのだろうか?というのが僕の正直な印象であった。
幸い僕は、日本に帰国してしまった友人から当分の間有効な乗車パスを譲り受けたため、形式上は無賃乗車を免れてはいるが、もちろんそのパスの提示を求められたことも一度もないので、別段パスを持っている必要性すら感じないのである。であるから、もしそのパスをアパートに忘れたとしても、僕はおそらく平気な顔で電車にのっかるだろう。
しかし!!なぜだろうか、他のお客達は何の疑いもなく一台しかない券売機の前に整然と並んで切符を買い求めているではないか。
もちろん「そんなの当たり前だろ?」といわれればそのとおりなのだが、僕にはそれがとても不思議な光景に感じられたのである。
だって駅員もいなければ、改札口すらないのだ。切符なんて買わなくたって絶対に誰からも咎められることはないのに、なぜか皆粛々と切符を買っている。
ズルしようという人間がいたってちっともおかしくないだろうに、、、、。
いや、ズルをして無賃乗車をしている人間はきっといるに違いない。しかし、僕の見ている限りそういう人間はほんのごく一部であるように思われた。
そもそも日本だったらこんなイージーなシステムはまず絶対にありえないのではないだろうか。少なくとももしこれが日本だったら、ホームに柵を作って出口に自動改札を設置するぐらいのことはやるだろう。そうでもしなければ無賃乗車し放題になってしまうに違いない。
なのに、この人たちはどうしてそんなに道徳的でいられるのだろうかと、彼らを見ながらなんとも非道徳的な感情にとらわれてしまう僕であったのだが、そんなある日、僕はある同僚の女性とこの件に関して話をする機会に恵まれた。
僕が、「こんな話をすると、非道徳的な奴だと思われるかもしれないが、ここの路面電車のシステムは僕にはすごく不思議に思える。だって、切符を持ってるかどうかなんて誰も見てないのにどうしてみんなあんなにまじめに切符を買ってるんだろうか?日本じゃ絶対こんなイージーなシステムはありえないと思う」とたずねると
それに対する彼女の答えはこうであった。
「本当に誰も見てないと思う?」
「。。。。。」
情けないことに彼女にこういわれても僕はしばらくその意味がわからなかった。
以前このブログでも The Politic Compassというサイトを紹介したことがある。
いくつかの質問に答えていくことで自分の政治的位置がわかるという興味深いサイトだ。
まだ、挑戦したことのない方は是非お試しいただきたいのだが、
その質問の中にこんなのがあったことを彼女の返事を聞いた後に思い出した。
“You cannot be moral without being religious.”
はじめてこの問いに遭遇したとき、僕は何の迷いもなく strongly disagreeにチェックをした。
宗教がなければ人間が道徳的ではいられないなどということは断じてありえないと思ったからだ。現在多くの日本人は具体的な宗教を持ち合わせていないのではないかと思うし、僕もその一人であると自覚はしている。しかし、自分は十分道徳的であると思っているし、自分が道徳的であるために何らかの宗教の力が必要だなどとは露ほども考えたことはなかった。
「ってことはつまり、彼らは自分達の行動を神が見ていると考えているのか?」
「そう。信心深い典型的なテキサン(テキサスに住むアメリカ人のこと)だわ。」
「。。。。。」
そのときの彼女の一言は僕には非常に重く響いた。
そして、それに追い討ちをかけるようにその数日後、職場の一室でギリシャ人フェローからこういう質問を受けた。
「そういえば、ずいぶん前に読んだんだけど、日本では女子高生の売春行為が社会問題になってるんだってね。びっくりしたわ。そりゃギリシャにだって売春婦はいるけど、あくまでそれは売春を生業とする人たちであって、一般の女子高生がバッグ欲しさに売春行為をするってちょっと信じられないわ。」と。
するとすかさずその横からタイ人の男性フェローが突っ込みを入れた。
「バンコクには、毎年すごい数の日本人男性観光客が女性を買いにやってくるんだよ。でも、どうして?日本って仏教の国でしょ?仏教の世界ではこういうのは非道徳的じゃないのかな」と
でた。。。。また宗教の話だよ。。と思いつつ。
「いや。そりゃ、どちらかといえば仏教の国かもしれないが、多くの日本人は基本的には無宗教だよ」と答えると
「そうか。じゃあ、きっとその無宗教が問題なのかもな」と能天気なタイ人。
日本人の多くが宗教心に欠けているのはそのとおりかもしれない。しかし、それと援助交際を結びつけるのもずいぶん突飛な話だなーという気もする。さりとてそれを積極的に否定する材料はどこにもない。
いずれにせよ例の路面電車の一件以来少なくとも僕は“宗教を持たない者は道徳的たり得ない”という命題に対してstrongly にdisagreeする自信をなくしてしまったのである。
書き込みありがとうございます。
こっそり監視されているかどうかは分かりませんが、おっしゃるとおり、人の倫理観でのみ成り立っているようなシステムではないと僕も思います。いまどき世の中そんなに甘くないでしょうからね。
実はあとから聞いた話ですが、不定期に警察官がホーム上で検札をする場合があるのだそうです。このときに、切符を持っていないと60ドルの罰金を科せられるのだそうです。私は未だに一度も遭遇したことはありませんが、友人は一度経験があると言っていました。
ちなみにこのようなシステムはヨーロッパの都市では比較的よくみかけるものなのだそうです。
この話はヒューストンでの私の体験談です。
日本ではまず採用されそうもないこのシステムが個人的にとても不思議だったことと、友人のフランス人から、キリスト教的な倫理観をある程度ベースにして構築されてきたシステムであるという旨の話をきいて興味深かったので書いてみた次第です。
こんな具合に、日々感じたことなど勝手に書き散らしておりますので、今後もへんてこな記載があったらまたご指摘いただけるとうれしいです。
また遊びにいらしてください。
これはおそらく監視されていると思う。カメラ、乗客になりすましたセキュリティー、双眼鏡、なんらかのコストにみあった方法でチェックしているでしょう。数回のただ乗りなら運賃回収コストがあるからほおっておくのでは。
倫理的抑止力というのはおもしろい話ですが、テキサスのとくに大都市でこれだけにまかせておくというのは他に何かありそう。たとえば、公的な経営で、税金とパスのプリペイでおおかたの経費がまかなえているとか。
こんにちは。
引越しを無事終えられたようで何よりです。
そうですか、o_sole_mioさんの周囲にも同じような方がいらっしゃいましたか。
世界中どこへ行ってもそうだとは思いますが、こういった宗教に裏づけされた行動パターンというのはその宗教に精通しない人々にとっては単に摩訶不思議な光景でしかないのかもしれませんね。。。
ということは、自らの宗教を持つ人たちからわれわれがimmmoralとよばれてしまうのも、ある意味しょうがないことなのでしょうかねー。。。
ところで、
>>殺されたのは蘇我入鹿と蘇我蝦夷です
ご指摘有難うございます。やっぱり違いましたか。
しかも殺されたのは二人でしたか。。。
僕は理系志望でしたが、共通一次試験は日本史で受験しました(利口な理系の人は地理などの比較的点に結びつきやすい科目を普通は選ぶのですが、、)。試験前は日本史の勉強に時間をかけすぎて他の教科がおぼつかなくなるという失態を演じたほどだったのですが、、、いまやこの体たらくです。お恥ずかしい。
ということで、これに懲りず今後ともお付き合いください。
今回の話題とよく似た話を思い出しました。
10数年前、当時の上司がヨーロッパへ視察旅行へいったとき、やはり路面電車に乗ったそうですが、ヒューストンと同様、やろうと思えば簡単に無賃乗車でできる状況で誰もがきちんと切符を買って乗っていたそうです。
帰ってきた上司が不思議がっていたので「西欧のキリスト教的な倫理観では神の目が倫理的な抑止力として働いているのだと思います。日本人の場合は周囲の視線(人の目)が倫理的な抑止力となるため、人が見ていないと何でもやっていい、という傾向がありますね。」といったことを答えたと記憶しています。
で私のコメントは上司の出張報告会でしっかりぱくられてしまいました(たいしたコメントじゃないんで別によいですが)。
それから大化の改新で殺されたのは蘇我入鹿と蘇我蝦夷です、ご参考までに。
かなり深いですよ~。1セメスター講義をとったからといって宗教について知っているなんてとても言えないということを学ぶって感じです。深さと自分の知識の薄さを実感する講義です・・・
なんだかよく分からないけどすごく掘り下げた授業に聞こえますね。
面白そうです。興味ありますね。
ちなみに、、蘇我馬子って、、大化の改新で殺された人でしたっけ、、だめだ、、日本史選択だったというのにほとんど覚えていない、、、、。
はるか忘却のかなたです、、、。
でも、その蘇我馬子が日本の宗教観とどのように関わってくるのか興味ありますね。。
余りに違うから想像するのも難しいって感じでした。
先生はね・・・「知っている範囲でしか話せません」というのを大前提に話せる人なので、とっても良い講義でしたよ。先生の理解と解釈はかなり鋭いところをついていました。ってか、「なんでそこまで理解できてアナライズできるの?」と感動・・・さすが私の尊敬するスタックハウス博士・・・
理解に苦しんでいたってこと?
ちなみに講義していた先生は理解していたんでしょうかね、、なんて。
確かに、ちょっとした行為だからこそ差を大きく感じるんだと思います。思いもよらないところで違いを見るのが一番インパクトあると思うし・・・。
日本は人口が多いのと、やはり独自性でしょうね。かなりクラスのみんなは苦しんでいました。
いやー、面白い話ですね。
宗教学の授業ではちゃんと日本というカテゴリーが存在するんですね。つまりそれだけ日本における宗教観が一つの研究テーマになるぐらいに外国人研究者の興味を惹いているということなのでしょうか。
日本人が「善悪」を基準にしないというのは確か中学生のときに国語の教科書に載っていた“菊と刀”で勉強させられた記憶がありますね。
しかし、今回のような切符を買うなんていうちょっとした行為にすごく大きな文化の差を感じてしまいます。
そうだ!“ダイアンの宗教学講座”やってくださいよー。なんて忙しくてそんな暇ないか。。。
前回宗教学で日本を取り上げました。そのとき、教授が言っていた一つのポイントは「古代の日本の思想は『美しさ』であって『善悪』ではない。つまり『美しいか』『毒されている(poluted)』かの区別となる。よって、相対的な考え方が生まれてくる。中国の道教の思想も影響していると思われるが、もともと日本人は『善』を求めるのではなく『美しさ』をもとめるのだ」そういう言い方もあるんだなと妙に関心しました。
日本人の「善悪」ってちょっと質が違いますよね。かなり相対的だと思います。社会が良しとするか悪しとするかで善悪の基準が変わってくる。だからとっても流動的だと思うんです。
なかなかそういう思想の国って、特にメインストリームの中では無いですね。かなりユニーク。
価値基準が常に流動的ってなかなか難しいですよ。