ほぼ毎日、僕は職員食堂で昼飯を食べている。
基本的にみな仕事が忙しいので、同僚同士で連れ立って一緒に昼食を食べに行くということはあまりなくて、なんとなく手の空いたものから職員食堂で順に昼飯を食べるという慣わしだ。
しかし、昼食時にいつも感じることがある。
もちろん、これは食事の時に限らなくて、普段電車に乗るときだって、道を歩いているときだって同じことなのだが・・・・。
自分も含めてのことだけど、人間同士のコミュニケーションがとても下手なのだ。
たとえば、昼飯時に食堂の席が混んでくれば、当然、みな譲り合って合い席になることはしょうがない。
しかし、『ここ空いてます?』とか『合い席でもいいですか?』などと声をかけてくるひとはほとんどいない。
もちろん、合い席自体はまったくno problemだし、もし一言『ここ座っていいですか?』と聞かれれば笑顔で気持ちよく『どうぞどうそ!』と答えてあげられるのだけれど。
ところが、隣に座って来る人のほとんどは、僕には一瞥もくれず、無言で座ってくる。『ここ座っていいですか?』などと聞いてくる人は皆無である。
同様に、僕が『ここいいですか?』と聞いても、『どうぞ』とちゃんと目を見て返事をしてくれる人はおそらく半分もいないのではないだろうか。
つまり、半分ちかくの人は、恰も聞こえなかったようなふりをして、黙々を飯を食い続けるのだ。
留学前にはあまり気にしなかったけど、やっぱり日本人ってどっか変だなーと感じる。
基本的にみな仕事が忙しいので、同僚同士で連れ立って一緒に昼食を食べに行くということはあまりなくて、なんとなく手の空いたものから職員食堂で順に昼飯を食べるという慣わしだ。
しかし、昼食時にいつも感じることがある。
もちろん、これは食事の時に限らなくて、普段電車に乗るときだって、道を歩いているときだって同じことなのだが・・・・。
自分も含めてのことだけど、人間同士のコミュニケーションがとても下手なのだ。
たとえば、昼飯時に食堂の席が混んでくれば、当然、みな譲り合って合い席になることはしょうがない。
しかし、『ここ空いてます?』とか『合い席でもいいですか?』などと声をかけてくるひとはほとんどいない。
もちろん、合い席自体はまったくno problemだし、もし一言『ここ座っていいですか?』と聞かれれば笑顔で気持ちよく『どうぞどうそ!』と答えてあげられるのだけれど。
ところが、隣に座って来る人のほとんどは、僕には一瞥もくれず、無言で座ってくる。『ここ座っていいですか?』などと聞いてくる人は皆無である。
同様に、僕が『ここいいですか?』と聞いても、『どうぞ』とちゃんと目を見て返事をしてくれる人はおそらく半分もいないのではないだろうか。
つまり、半分ちかくの人は、恰も聞こえなかったようなふりをして、黙々を飯を食い続けるのだ。
留学前にはあまり気にしなかったけど、やっぱり日本人ってどっか変だなーと感じる。
もっとみんなで話をする機会を作らないとお互い希薄になりますね。自らも反省です。
「訪れたのが久々のくせに、何か書いてるんだ~」というツッコミはさておき。
ということで、コメントを残させていただきます。
>自分も含めてのことだけど、人間同士のコミュニケーションがとても下手なのだ。
って、Kazu-nさん!!
そんなことなかったでしょ。少なくともこちらでは。あなたのファンが大勢いましたから。
今回の例の場合、皆さんの職員食堂ということで、公共の場という観念が薄いのではないのでしょうか。
第一案。
自分の職場―>自分の食堂―>空席は自分の席、といった風に。
また一方で、公共の場は、皆の物だから税金を納めている(納めていなくても)、それは国民の者>一市民・俺様の物(という思考の方もいらっしゃいました)。
この考えは、厚生の立場から、職場の物は俺の物、という考えに繋がりますね。
(私物にした場合は、法的に罰せられますが。)
そういえば、こちらHoustonでは、必ず聞くし、聞かれるよね。
「この席、空いてますか?」って。
先週もM家ご息女方をナーサリーしていて、買い物ついでのランチの際に、混みあっていたフードコートで、子供達だけでも座らさなければと、訊ねまくりました。
このような状況の例は、ちと違う気はしますが。失敬。
もとい、空間があれば、えーそれは、
それほど無理をしなくてもよい(これは他人にものを訪ねなくても、十分確保できると当人が勝手に認識した)空間があれば、訊ねないのかしらんとも、思いました。
相手は一人>当方も一人>空席は一席=問題無し=聞く必要なし。
「触らぬ神に祟りなし」的な、このような思考は、おそらく最近の核家族社会、守プライベートor 自己の云々、etcからくるものではないのでしょうか?
村社会、寄り合い、下町、仁義、「義理と人情、秤にかけりゃ義理が重てぃ渡世のさだめ。」なんいうのは、さてさていつのことだったのかしらん。
By 明治生まれ。
いつも興味深く拝見させて頂いております。
私も常々感じていることなのですが、挨拶の出来ない(&コミュニケーション能力の低い)オトナが多いと思います。
私の職場でも挨拶どころか、すれ違っても会釈すらしないで通りすぎていく人が大勢います。
それって、すごく失礼だと思いませんか?
私は相手の存在を無視していていると思います。
ですから、きっと「ここの席空いてますか?」と声をかけないのも、相手を無視しているからなんでしょうね。
人とのコミュニケーションが下手がゆえに、自分をど表現すればいいのかわからないが為に、人を殺すという形で自己表現をするんでしょうね。
留学から帰ってきてからというもの、この日本社会の『無コミュニケーション症候群』(今、僕が勝手に名づけました)が気になってしょうがありません。
きっとanemoneさんはよくお分かりだと思いますが。
まず、何をするにも基本的に相手の顔をみようとしないですよね。
人ごみで急いでいて、人をかき分けて進まなければならないときに、人にぶつかろうが何しようが『すみません』も『通してください』もなく、ひたすら突進してゆくサラリーマン、中高生など、本当に多いと思います。たまにそういう人がいるという次元ではなく、そういう人がほとんどだというところがやっかいです。
電車の中で席を譲ったり、部屋のドアを開けて人を先に出してあげたりしても、ほとんどの人が目をあわせようとしない。『ありがとう』とか『すみません』と言ってくれる人はまだよくて、それすらない人もいます。
テレビの討論番組では、討論者同士が、ほとんど視線を合わせずに、司会者の方だけを見てしゃべっています。
コンビニで買い物するときも、『いらっしゃいませ~』と言葉遣いだけは丁寧な若い店員は、レジを打っている間中終始僕の顔を見ることはありません。
外国人が『日本人は何を考えているのかわからない』と言っている意味がよく理解できます。
確かに、不気味です。
とにかく毎日の職員食堂での、誰一人視線を合わそうとしないあの空間の不気味さといったらありません。
これを『阿吽の呼吸』とか『以心伝心』などとあたかも日本人特有の美徳であるかのように言う人がいますが、はたしてどうなんでしょうか。
「こちらでの朝の挨拶事情について・・・・」なんてね、程遠い内容だけど。
日本にいた際の職員食堂は、基本的に長テーブルが設置してあり、相席当たり前の状況でした。
知人や顔見知りを探して、「もう、お食事、終わっちゃいますか?ここいいですか?」と相席させてもらったり、こられたり。
お互い食事が終わると、時間がなければ「それではお先に」と席を立つし、あれば相手を待ちながらおしゃべりを続けたりと。
もちろん知らない方でも、同じ職場という事で、自己紹介をしあったりなんていうのもありました。
ちょっとの間であっても食事の時には誰かが居る方が、楽しいような気がするのは、私だけでしょうかしらん。