高校時代、修学旅行で東北を訪れた。
ほとんど思い出らしい思い出のなかった高校時代。僕は遥か東北の地で、ある心動かされる体験をする。
あれはまだうだるような暑さの残る9月初旬であったと記憶している。
その当時、僕のクラスの担任はやけに気の短い物理教師で、何かにつけてよく生徒を殴ることで有名であった。僕も幾度となく目つきが悪いなどといっては殴られたものだ。
当然修学旅行中も、この教師はやれ集合が遅いだのなんだのと因縁をつけては気に入らない生徒をボカスカ殴っていた。そのことも手伝って高校時代最大の思い出となるはずの修学旅行を僕はほとんど何の感慨もなく終えようとしていた。
修学旅行最終日前日、僕達は岩手県の平泉町を訪れた。
ここで僕らは有名な中尊寺金色堂を見学することになっていた。
平泉は四代続いた奥州藤原氏が頼朝の軍勢に攻め込まれて滅亡した土地である。
初代清衡の時代から藤原氏は四代に亘ってこの東北の地で栄華を築いてきた。
しかし、三代秀衡は頼朝と仲違えした源義経を匿い、そのことによって頼朝に奥州攻めの絶好の口実を与えてしまう。
文治5年(1189年)。秀衡亡き後、四代泰衡の世。ついに頼朝の軍勢が平泉を攻め藤原氏は滅びるのである。
中尊寺のある「藤原の郷」についた僕達は、ある記録映画を見せられた。
昭和40年ごろに行われた泰衡の墓の発掘調査の模様を記録したものであった。
泰衡のものと思われる頭蓋骨の眉間のあたりから後頭部にかけて、おそらく杭で壁に打ち付けられて晒し首になったのであろう、大きな穴が開いていたのを今でも鮮明に憶えている。
吾妻鏡のなかにも当時の戦いがいかに烈しく残酷なものであったかについての記録が残っている。それによれば頼朝軍に攻め落とされて灰となった平泉の町は、降りしきる雨の中で人影すらなく廃墟同然であったという。
僕は、遥か昔にこの地で繰り広げられたであろう血で血を洗う熾烈な戦の風景を想像し背筋の寒くなる思いがした。
映画を観終わったあと僕達は自由行動となり、数人の班にわかれて周囲を散策することになった。僕は悪友たちとともに義経の居館があったという高館の丘を目指して舗装されていないだらだらとした坂道を登り始めた。
坂の両側には背の高い松の木が植えられ僕達の視界を遮っていた。ジージーという油蝉の奏でる雑音だけが辺りを支配する中、僕達は特に言葉を交わすでもなくただ歩きつづけた。
陽は傾きかけていたが、風がないせいか周囲の空気は熱気を孕んだままだった。
ちょうど丘の頂にさしかかった頃であった。
松林が途切れたかと思うと、突然僕達の目の前でばっと視界が開けた。
果たして、、、束稲山のふもとに悠然と横たわる北上川と濃い緑に包まれた広大な平野とが突如として眼前に現れたのである。
いきなり出現した広大な風景を前にして僕達は一瞬虚をつかれたように立ちどまった。
はるか向こうに農道らしき道路が一本走っていて一台の軽自動車がのろのろと走っているのが見える、、、風を遮るものがなくなったためか、よどんでいた空気が動き、汗ばんだ皮膚にひんやりとした感覚が伝わる、、、
なんと清々しく長閑な風景であるか、、、
しばし時の経つのを忘れ風景に見入っていた僕は、ふと傍に小さな句碑が建てられていることに気が付いた。
そこには今から300年以上前、松尾芭蕉が弟子の曽良とともにここ平泉を訪れたときに詠んだある句が記されていた。
夏草や 兵どもが夢の跡
僕達が立ち尽くしているその場所で300年以上前に芭蕉は同じ風景を見ていたに違いない。
そして、同じ風景をみながら芭蕉はこの句を詠んだのだ。
芭蕉がこの地に立つはるか500年前、眼前に広がるこの広大な大地で繰り広げられた血塗られた戦いは、はるか時代を経た今、恰も夢の中の出来事であったかのように言い伝えられているのみである。
その俳句を見て僕は猛烈な感動におそわれた。
栄華を極めた往時の面影なく静かに横たわっている北上川を眺めながら、そのとき僕はこの句にこめられた芭蕉の思いをはじめて理解したのである。
それは300年の年月を隔て僕と芭蕉がつながった瞬間でもあった。
あの時、高館の丘から眺めた大地の姿が僕の原風景である。
そして歴史に翻弄された戦乱の世を懐かしむかのように、平泉の町は今もひっそりと北上の大地に佇んでいる。
ほとんど思い出らしい思い出のなかった高校時代。僕は遥か東北の地で、ある心動かされる体験をする。
あれはまだうだるような暑さの残る9月初旬であったと記憶している。
その当時、僕のクラスの担任はやけに気の短い物理教師で、何かにつけてよく生徒を殴ることで有名であった。僕も幾度となく目つきが悪いなどといっては殴られたものだ。
当然修学旅行中も、この教師はやれ集合が遅いだのなんだのと因縁をつけては気に入らない生徒をボカスカ殴っていた。そのことも手伝って高校時代最大の思い出となるはずの修学旅行を僕はほとんど何の感慨もなく終えようとしていた。
修学旅行最終日前日、僕達は岩手県の平泉町を訪れた。
ここで僕らは有名な中尊寺金色堂を見学することになっていた。
平泉は四代続いた奥州藤原氏が頼朝の軍勢に攻め込まれて滅亡した土地である。
初代清衡の時代から藤原氏は四代に亘ってこの東北の地で栄華を築いてきた。
しかし、三代秀衡は頼朝と仲違えした源義経を匿い、そのことによって頼朝に奥州攻めの絶好の口実を与えてしまう。
文治5年(1189年)。秀衡亡き後、四代泰衡の世。ついに頼朝の軍勢が平泉を攻め藤原氏は滅びるのである。
中尊寺のある「藤原の郷」についた僕達は、ある記録映画を見せられた。
昭和40年ごろに行われた泰衡の墓の発掘調査の模様を記録したものであった。
泰衡のものと思われる頭蓋骨の眉間のあたりから後頭部にかけて、おそらく杭で壁に打ち付けられて晒し首になったのであろう、大きな穴が開いていたのを今でも鮮明に憶えている。
吾妻鏡のなかにも当時の戦いがいかに烈しく残酷なものであったかについての記録が残っている。それによれば頼朝軍に攻め落とされて灰となった平泉の町は、降りしきる雨の中で人影すらなく廃墟同然であったという。
僕は、遥か昔にこの地で繰り広げられたであろう血で血を洗う熾烈な戦の風景を想像し背筋の寒くなる思いがした。
映画を観終わったあと僕達は自由行動となり、数人の班にわかれて周囲を散策することになった。僕は悪友たちとともに義経の居館があったという高館の丘を目指して舗装されていないだらだらとした坂道を登り始めた。
坂の両側には背の高い松の木が植えられ僕達の視界を遮っていた。ジージーという油蝉の奏でる雑音だけが辺りを支配する中、僕達は特に言葉を交わすでもなくただ歩きつづけた。
陽は傾きかけていたが、風がないせいか周囲の空気は熱気を孕んだままだった。
ちょうど丘の頂にさしかかった頃であった。
松林が途切れたかと思うと、突然僕達の目の前でばっと視界が開けた。
果たして、、、束稲山のふもとに悠然と横たわる北上川と濃い緑に包まれた広大な平野とが突如として眼前に現れたのである。
いきなり出現した広大な風景を前にして僕達は一瞬虚をつかれたように立ちどまった。
はるか向こうに農道らしき道路が一本走っていて一台の軽自動車がのろのろと走っているのが見える、、、風を遮るものがなくなったためか、よどんでいた空気が動き、汗ばんだ皮膚にひんやりとした感覚が伝わる、、、
なんと清々しく長閑な風景であるか、、、
しばし時の経つのを忘れ風景に見入っていた僕は、ふと傍に小さな句碑が建てられていることに気が付いた。
そこには今から300年以上前、松尾芭蕉が弟子の曽良とともにここ平泉を訪れたときに詠んだある句が記されていた。
夏草や 兵どもが夢の跡
僕達が立ち尽くしているその場所で300年以上前に芭蕉は同じ風景を見ていたに違いない。
そして、同じ風景をみながら芭蕉はこの句を詠んだのだ。
芭蕉がこの地に立つはるか500年前、眼前に広がるこの広大な大地で繰り広げられた血塗られた戦いは、はるか時代を経た今、恰も夢の中の出来事であったかのように言い伝えられているのみである。
その俳句を見て僕は猛烈な感動におそわれた。
栄華を極めた往時の面影なく静かに横たわっている北上川を眺めながら、そのとき僕はこの句にこめられた芭蕉の思いをはじめて理解したのである。
それは300年の年月を隔て僕と芭蕉がつながった瞬間でもあった。
あの時、高館の丘から眺めた大地の姿が僕の原風景である。
そして歴史に翻弄された戦乱の世を懐かしむかのように、平泉の町は今もひっそりと北上の大地に佇んでいる。
いや~なつかしい!!
きれいだったなぁ・・・。
初めての道外だったっけ・・。
その点、本州に住んでる僕らとはちょっと感覚が違うのかもしれませんね。
ちなみにこのコメントは新しいPCからのですか?
北海道の人(少なくとも私の周りは)は「県」に
弱いです。大体学校でも東北六県しか
ちゃんと覚える必要なかった記憶・・・。
その代わり北海道の「支庁」には強いですよ(そんなの
道外の人には分からないよね・・・)
だから、香川県とか言われると、
「本州の南の方だっけ・・・???」
という情けない発言となります・・・とほほ。
この間、小豆島はどこにあるのかという話に
なりましたが、全員わかりませんでした。
だから距離感覚も無いんですよ・・・。
京都と奈良は近いのか遠いのか・・・???
分かりません・・・。
そうです、上のコメントは新しいPCからでした。
といってもいつも京都どまりだから僕もちゃんと知ってるわけではないですが、、、
電車で30-40分ぐらいじゃないでしょうかねー
ということで次は絶対奈良まで足を伸ばしたいです。
海外対応も完備しました。イエーイ!
そうなんだ!近いんだ!!
京都、奈良って修学旅行以来だよ。
行きたいなぁ・・・。
竹林を見たときは大感動しましたよ!!
ああ、行きたい・・・。
心が洗われますから。
きっとクリスチャンの人も、あの穏やかな気持ちはわかってくれるんじゃないでしょうか?
それから何と言っても京都は美味いものが多い!
一度思い切って京都の東寺の近くにある老舗の料亭みたいな所へ行ってみたんですが、雰囲気がよくてしかも死ぬほど料理が美味かった、、、
忘れられません。
で、食べ物も薄味で美味しかった・・・・。
北海道にいると「日本」だなって思うところは少ない
から、凄く異文化でした。
以前読んだお話。
ある俳句教室で、ふつうのおばさんが「夏草や・・・」、と、芭蕉と全く同じ俳句を詠みました。
先生は、「いくら名句だからといって全くの真似は・・」とたしなめるわけですが、件のおばさん曰く、真似ではなく、
本当に今思いついた、と。
忘れるほど昔に聞いた句を思い出したのか、
日本人の原風景として、DNAの中にこのような句を生む何かが
あるのか、という・・・
多分前者だとは思いますが、後者と考えるとちょっぴり
ロマンがあるなあ、と。自分は実際いったことは無いのですが
一度訪れてみたいですね。
すべてが唐突だったのであそこまで感動したのだと思います。
つまんねーなーとか思いながらだらだらと坂道を登っていた時に突然見晴らしのよいところに出て、あっと驚いたところにあの句ですからね、、、
ひょっとして、はじめからそういう効果を狙って作られた道なのかなーなどと勘ぐったりして、、、
関係ないですけど、昨日いとうせいこうの書いた本を読んでたら平泉に関する記載が出てきて、なんと彼もこの坂のことを書いていました。月見坂っていうらしい、、、“この世を支配したくなる人の気持ちがわかった”とか書いてましたよ。何たる偶然!!