鈴木邦男氏の「愛国者は信用できるか」を読んだ。読みやすくてなかなか面白い本だと思った。
以前にも書いたことがあるけれども、日の丸、君が代を政府(および自治体)が強制しようとしたり、「愛国心」を国民の〈義務〉として憲法(および教育基本法)に書き込もうとしたりする一連の動きに対して、僕は違和感を持っている。(少なくとも憲法に関して言うならば、あれは国民が政府に下す命令なのだから、そもそも国民の義務が憲法に書き込まれること自体がナンセンスではないかと思う)。
この本の中でなるほどと思ったのは「愛国」と「憂国」の差異についての考察だ。鈴木氏によると、〈愛国〉とは文字通り「この国を(現状のまま)愛せよ!」という思考であり、これに対し〈憂国〉は「この国は今のままではダメだ。何とかしなければ!」という思考であると言う。前者が現状維持的であるならば、後者は革新的だ。
従って、三島由紀夫がそうであったように、あるいは2・26事件を起こした青年将校たちがそうであったように〈憂国〉の思想というのは、一歩間違えば、時の権力を否定し、クーデターやテロにまで発展する危険性を秘めている。
にもかかわらず、鈴木氏は〈愛国〉にくらべたら〈憂国〉のほうがずっとましだという。事実、三島由紀夫も『愛国心』を「官製のいやな言葉である」と書き、「愛国心」の強制と、徴兵制の導入には強く反対を唱えていた。「愛国心」などというものは強制的に押し付けられて芽生えるものではないと考えていたのである。
鈴木氏はこう書く。「憂国は暴発的な決起に結びつき、危険な連鎖のように見える。愛国は現状維持的で平和のように映る。しかし一概にそうは言えない。憂国は時に暴力的になり、暴発し、連鎖する。しかしあくまでも個々人の自発的な意思に任されている。(中略)その点、愛国は一見平和的だが、暴発すれば国民全体を巻き込む。うむを言わせない。テロやクーデターは憂国から起きるが、局部的なものだし、瞬間的なものだ。愛国は〈戦争〉に突き進み、全国民を強制する。それも長い年月強制する。憂国は部分的で短絡的だが、愛国は全体的で長期的だ。「憂国の士」はそれほどいない。しかし「愛国」は全員が強制される。「愛国心を持つのは当然だ」「国民の常識だ」と言われる。戦争の時には特に顕著だ。その全体の流れに対し消極的な人間は「非国民!」「売国奴!」といって袋叩きにされる。つまり愛国心は、そうでない人間を排除し、罵倒するために使われることが多い。これは危険なことだ。「憂国」よりも「愛国」の方が何百倍も凶暴だし、残忍だ」
ご存知の方も多いと思うが、鈴木氏は長年、民族派運動に携わってきた、バリバリの(?)理論派右翼である(その思想は従来の右翼と区別され、新右翼と呼ばれている)。その鈴木氏が、君が代、日の丸の強制、もしくは愛国心の強制に、三島同様に強く異議を唱えていることの意義は大きいと思う。
僕は右翼ではないけれども、鈴木氏のこの心情は理解できる。
それこそ、君が代、日の丸を強制しようと躍起になっている一部の自治体の教育委員のみなさんには、この鈴木氏の本を(もしくは三島の本を)一度読んでいただきたい。
聞くところによると最近は、君が代斉唱時の起立、不起立のみにとどまらず、歌っているときの声の大きさまでチェックの対象とし、それを根拠に「愛国心」の有無を計ろうとする自治体すらでてきているようだ。http://tokyo.cool.ne.jp/kunitachi/kyouiku/kurume.htm
僕自身は君が代、日の丸には大して違和感はないので、日の丸の掲揚も君が代斉唱も自由にやったらいいとは思う。しかし、一部の人心を無視した一方的な強制には強い違和感を覚えずにはいられない。ましてや声の大きさを評価の対象にするなんて、滑稽としか言いようがない。戸田市の教育長ではないが“(はらわたの)煮えくり返る”とはまさにこっちの台詞なのだ。どうしても声の大きさをチェックしたいというなら、いっそのこと鈴木氏が提案するように、音程と拍子のズレも同時にチェックしたらいい。そして音痴でリズム感のない教員も同時に懲罰対象にする。君が代を上手に歌えない教員は声が小さい教員同様に君が代を冒涜している。もちろん生徒の父兄だって例外ではない。音痴でリズム感のない人は、他人の迷惑にならないように自宅で一人で歌うことにする。少なくとも君が代の美しさを冒涜するような破壊的歌声の持ち主には、公式な場での斉唱を許すべきではない。(もちろん冗談である)
尚、ビデオニュースネタで恐縮であるが、平成4年10月の園遊会において、東京都教育委員の米長邦雄氏が天皇陛下に対し「全国の小中学校で君が代を歌わせ、日の丸を掲揚させることが私の仕事でございます」という趣旨の発言をし、陛下から「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と諭される場面があった。この陛下のご発言からもわかるように、陛下ご自身は強制をあまり望んでおられないようであるが、それはともかく、今回のような愚挙にでた米長氏は、まさに現代における“不忠の臣”そのものではないだろうか。穿った見方をすれば、米長氏は、陛下ご自身から何らかの肯定的な発言をとりつけ、君が代、日の丸の強制に対する権威付けに使おうとした可能性だってありうるのだ。もし仮に、陛下があの場で「ごくろうさまです。頑張ってください」と一言おっしゃっていたら、それこそ米長氏は、それを根拠に「これは、陛下の御意思である」といって、存分に愛国心の押し付けをやったのではないか。歴史上、世の権力者が自らの権威づけのために、いかに天皇という存在を利用し続けてきたか、我々は今一度振り返ってみる必要があるのかもしれない。天皇の政治利用を目論んだこのような軽々しい行為(宮台真司氏風にいうと“田吾作の鍔迫り合い”)こそ問題にすべきと思う。
鈴木氏の本はどれも非常に読みやすいので、興味のある方は是非。
以前にも書いたことがあるけれども、日の丸、君が代を政府(および自治体)が強制しようとしたり、「愛国心」を国民の〈義務〉として憲法(および教育基本法)に書き込もうとしたりする一連の動きに対して、僕は違和感を持っている。(少なくとも憲法に関して言うならば、あれは国民が政府に下す命令なのだから、そもそも国民の義務が憲法に書き込まれること自体がナンセンスではないかと思う)。
この本の中でなるほどと思ったのは「愛国」と「憂国」の差異についての考察だ。鈴木氏によると、〈愛国〉とは文字通り「この国を(現状のまま)愛せよ!」という思考であり、これに対し〈憂国〉は「この国は今のままではダメだ。何とかしなければ!」という思考であると言う。前者が現状維持的であるならば、後者は革新的だ。
従って、三島由紀夫がそうであったように、あるいは2・26事件を起こした青年将校たちがそうであったように〈憂国〉の思想というのは、一歩間違えば、時の権力を否定し、クーデターやテロにまで発展する危険性を秘めている。
にもかかわらず、鈴木氏は〈愛国〉にくらべたら〈憂国〉のほうがずっとましだという。事実、三島由紀夫も『愛国心』を「官製のいやな言葉である」と書き、「愛国心」の強制と、徴兵制の導入には強く反対を唱えていた。「愛国心」などというものは強制的に押し付けられて芽生えるものではないと考えていたのである。
鈴木氏はこう書く。「憂国は暴発的な決起に結びつき、危険な連鎖のように見える。愛国は現状維持的で平和のように映る。しかし一概にそうは言えない。憂国は時に暴力的になり、暴発し、連鎖する。しかしあくまでも個々人の自発的な意思に任されている。(中略)その点、愛国は一見平和的だが、暴発すれば国民全体を巻き込む。うむを言わせない。テロやクーデターは憂国から起きるが、局部的なものだし、瞬間的なものだ。愛国は〈戦争〉に突き進み、全国民を強制する。それも長い年月強制する。憂国は部分的で短絡的だが、愛国は全体的で長期的だ。「憂国の士」はそれほどいない。しかし「愛国」は全員が強制される。「愛国心を持つのは当然だ」「国民の常識だ」と言われる。戦争の時には特に顕著だ。その全体の流れに対し消極的な人間は「非国民!」「売国奴!」といって袋叩きにされる。つまり愛国心は、そうでない人間を排除し、罵倒するために使われることが多い。これは危険なことだ。「憂国」よりも「愛国」の方が何百倍も凶暴だし、残忍だ」
ご存知の方も多いと思うが、鈴木氏は長年、民族派運動に携わってきた、バリバリの(?)理論派右翼である(その思想は従来の右翼と区別され、新右翼と呼ばれている)。その鈴木氏が、君が代、日の丸の強制、もしくは愛国心の強制に、三島同様に強く異議を唱えていることの意義は大きいと思う。
僕は右翼ではないけれども、鈴木氏のこの心情は理解できる。
それこそ、君が代、日の丸を強制しようと躍起になっている一部の自治体の教育委員のみなさんには、この鈴木氏の本を(もしくは三島の本を)一度読んでいただきたい。
聞くところによると最近は、君が代斉唱時の起立、不起立のみにとどまらず、歌っているときの声の大きさまでチェックの対象とし、それを根拠に「愛国心」の有無を計ろうとする自治体すらでてきているようだ。http://tokyo.cool.ne.jp/kunitachi/kyouiku/kurume.htm
僕自身は君が代、日の丸には大して違和感はないので、日の丸の掲揚も君が代斉唱も自由にやったらいいとは思う。しかし、一部の人心を無視した一方的な強制には強い違和感を覚えずにはいられない。ましてや声の大きさを評価の対象にするなんて、滑稽としか言いようがない。戸田市の教育長ではないが“(はらわたの)煮えくり返る”とはまさにこっちの台詞なのだ。どうしても声の大きさをチェックしたいというなら、いっそのこと鈴木氏が提案するように、音程と拍子のズレも同時にチェックしたらいい。そして音痴でリズム感のない教員も同時に懲罰対象にする。君が代を上手に歌えない教員は声が小さい教員同様に君が代を冒涜している。もちろん生徒の父兄だって例外ではない。音痴でリズム感のない人は、他人の迷惑にならないように自宅で一人で歌うことにする。少なくとも君が代の美しさを冒涜するような破壊的歌声の持ち主には、公式な場での斉唱を許すべきではない。(もちろん冗談である)
尚、ビデオニュースネタで恐縮であるが、平成4年10月の園遊会において、東京都教育委員の米長邦雄氏が天皇陛下に対し「全国の小中学校で君が代を歌わせ、日の丸を掲揚させることが私の仕事でございます」という趣旨の発言をし、陛下から「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と諭される場面があった。この陛下のご発言からもわかるように、陛下ご自身は強制をあまり望んでおられないようであるが、それはともかく、今回のような愚挙にでた米長氏は、まさに現代における“不忠の臣”そのものではないだろうか。穿った見方をすれば、米長氏は、陛下ご自身から何らかの肯定的な発言をとりつけ、君が代、日の丸の強制に対する権威付けに使おうとした可能性だってありうるのだ。もし仮に、陛下があの場で「ごくろうさまです。頑張ってください」と一言おっしゃっていたら、それこそ米長氏は、それを根拠に「これは、陛下の御意思である」といって、存分に愛国心の押し付けをやったのではないか。歴史上、世の権力者が自らの権威づけのために、いかに天皇という存在を利用し続けてきたか、我々は今一度振り返ってみる必要があるのかもしれない。天皇の政治利用を目論んだこのような軽々しい行為(宮台真司氏風にいうと“田吾作の鍔迫り合い”)こそ問題にすべきと思う。
鈴木氏の本はどれも非常に読みやすいので、興味のある方は是非。
三島由紀夫が愛国心について「官製のいやな言葉」と書いていたのですか。実は私も教育基本法に愛国心が謳われると官製愛国心がまかり通ってしまう、と危惧しています。しかしながら、すでに先取りした形で、通知表に愛国心が評価の対象になっていたり、君が代斉唱が教育委員会の指導のバロメーターになっていたりしており、教育現場が「偏狭なナショナリズム」に徐々に覆われているようです。
o_sole_mioさんのおっしゃるように、鈴木氏は筋の通らないことは嫌いだし、たとえ左翼的な言説であっても、筋の通った言い分には耳を傾ける度量を持っている人だと思います。おかげで、他の右翼の人たちからは「鈴木は変節している」と非難されることも多いようです。
>>教育現場が「偏狭なナショナリズム」に徐々に覆われているようです。
なるほど。僕が考えているよりも状況はさらに深刻なのかもしれませんね。
鈴木氏も言っていますが言論にはそれ相当の覚悟がいります。学校の現場に限らず、権力を背景にする者に対する反駁は時として、発言する者を孤立に追い込み、また、そのような孤立に対する恐れが、言論の自主規制を生んでいると思います。
発言者としての矜持を持って、孤立を恐れずに、発言すべきことは発言するという覚悟が私達には必要なのかもしれません。