MY LIFE AS A DOG

ワイングラスの向こうに人生が見える

目からうろこの本

2010年12月12日 23時14分41秒 | 読書
今週の“目から鱗”シリーズは
「下流志向」内田樹著である。

最近、内田樹氏の本を手にとる機会が多い。
内田氏の本には個人的に“目から鱗”系のものが多いように感じるが、本書もまさにそれである。

本書「下流志向」は“学ばない子どもたち、働かない若者たち”というサブタイトルが示す通り、現代の若者の「学びからの逃走・労働からの逃走」という社会現象について佐藤学、苅谷剛彦、諏訪哲司、山田昌弘諸氏の最新の研究成果を踏まえつつ内田流にスパイスを効かして著したエッセイ風の読み物となっている。

昔から、勉強嫌いの人間、いわゆる“怠け者”たちは身の回りにたくさんいたし、かく言う僕もその一人であったわけであるが、近年、特に教育の現場で顕著となってきているのは「教育を受ける機会から進んで逃走してゆく子供たち」が増えているというもの。すなわち、「教育機会から主体的決意を持って決然と逃走」し、「「下流社会」への階層降下を志向する」社会集団が登場してきたというものである。
「まじめに勉強しない人間や勤労を忌避する人間はいつの時代にもおりましたが、そのような行動が社会的に低い評価を受けることは本人も十分に自覚しておりましたし、それがもたらすネガティブな結果も覚悟しておりました。学ばないこと、労働しないことを「誇らしく思う」とか、それが「自己評価の高さに結びつく」というようなことは近代日本社会においてはありえないことでした。しかし今、その常識が覆りつつある」と内田はいう。
「教壇の近くの十人ぐらいだけが、授業をきいていて、後ろの方の、残りの二十五人ぐらいはほとんど授業を聞かないで、居眠りしたり、立って歩き回ったり、おしゃべりをしたり、マンガを読んだりしている」などといった、我々の常識では俄かに信じがたい光景が全国の公立小中学校で日常的に起こっているという。しかも、そのような生徒達は、いわゆる“怠けている”わけではなく、いうなれば全身全霊を傾けて“無秩序”を自らに課しているというのである。
そして、内田はこのような「膨大な努力を要求する無為」の背景に、「消費主体」として「等価交換」を要求する若者たちの姿があると分析する。

小学校1年生の教室で、ひらがなを教えようとすると「先生、これは何の役に立つのですか?」と子どもたちが訊いてくる。学びの場に立たされた子どもたちが最初の質問として「学ぶことは何の役に立つのか?」と訊くのである。
「確かに、その問いには一理あるわけです。子どもにとって、40分なり50分なり、教室に座ってじっとしていて、沈黙して先生の話す話を聞いて、ノートを取るというのは、ある種の「苦役」です。この「苦役」を、たぶん、子どもたちは教師に対して支払いをしているというふうにとらえている。別の言い方をすれば、「苦痛」や「忍耐」というかたちをした「貨幣」を教師に対して支払っている。だから、それに対してどのような財貨やサービスが「等価交換」されるのかを彼らは問うているのです」。もちろん、このような問いに対して、適当に功利的な理由をつけて、子どもたちを勉強へと動機づけようとする大人は世の中にはたくさんいる。しかし、通常「そのような問いに対して、教師は答えることができない。できるはずがない。」なぜならば「そんな問いかけが子どもの側から出てくるはずがない、ということが教育制度の前提だから」である。
内田は、ここで諏訪哲司氏の「オレ様化する子どもたち」という著書の中から“過去十年間教育について読んできた言葉の中で、僕にとっては最も啓発的な言葉”として以下の文章を引用する。
《私たちは、生活のすみからすみまでお金が入りこんでいる生活を、初めて経験している。朝から夜まで「情報メディア」から情報が入ってくる生活も初めてである。お金がお金を生み出す経済の運動のなかに完全に巻き込まれている。子どもたちが早くから「自立」(一人前)の感覚を身につけるのも、そういう経済のサイクルのなかに入り込み「消費主体」としての確信を持つからであろう。子どもたちは今や経済システムから直接メッセージを受け取っている(教育されている)。学校が「近代」を教えようとして「生活主体」や「労働主体」としての自立の意味を説くまえに、すでに子どもたちは立派な「消費主体」としての自己を確立している。すでに経済的な主体であるのに、学校へ入って教育の「客体」にされることは、子どもたちにまったく不本意なことであろう》

本来「教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育課程が終了するまで、言うことができないということにあります」。「もっとも分かりやすい事例は母語の習得です」。「母語の習得は最も原型的な学びです。他のすべての学びはこの経験を原型として構築されます」「母語の習得を、私たちは母語をまだ知らない段階から開始します。生まれるとすぐに、場合によっては胎内にいるときにすでに、母や父は子どもに話しかけます。そして、子どもは話しかけられてくる言葉を通じて、母語を学習します。私たちは現にそうやって日本語を習得したわけですけれど、母語の学習を始めた時には、これから何を学ぶかということを知らなかった」「つまり、起源的な意味での学びというのは、自分が何を学んでいるかを知らず、それが何の価値や意味や有用性をもつものであるかも言えないというところから始まるものなのです。というよりむしろ、自分が何を学んでいるのか知らず、その価値や有用性を言えないという当の事実こそが学びを動機づけているのです」「本来、学びはそのように構造化されています。ですから、それからしばらくして子どもが小学校に入って、文字を習う時も、算数を習う時も、音楽を習う時も、子どもたちは自分が何を習っているのか、何のためにそれを習っているのかを、習い始める時には言えないのです。言えなくて当然であり、言えないのでなければならないのです」「学びのプロセスに投じられた子どもは、すでに習い始めている。すでに学びの中に巻き込まれてしまっているのでなければならないのです」「子どもは学習の主権的で自由な主体であるのではありません」「まず、学びがあり、その運動に巻き込まれているうちに「学びの運動に巻き込まれつつあるものとしての主体」という仕方で事後的に学びの主体は成立してくる。私たちは自らの意思で、自己決定によって学びのうちに進むわけではありません。私たちはそのつどすでに学びに対して遅れています。私たちは「すでに学び始めている」という微妙なタイムラグを感じることなしに、学び始めることができないのです」

うーむ、読めば読むほど目から鱗がはらはらと落ちて、霧が晴れるかのように視界が広がってゆくのが分かります。
ということで、ほとんど引用ばかりでしたが、本書には他にも引用してご紹介したい箇所が山のようにあります。
興味のある方は是非ご一読をお勧めしたいと思います。
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