一昨日、京王線で若者が事件を起こした。みなさんも知っていることだろう。
僕は調布に住んでいる。この若者が調布駅で乗り換えたというが、僕もよく使う駅である。事件は国領駅あたりということだが、国領は7〜8年前に住んでいたところだ。本当に身近で起きたわけだ。
昨日、その京王線に乗った。なんか気になって、調布駅を窓越しに眺めた。いつも通り。
国領のホームを快速電車が通過する。国領駅は僕が住んでいた頃と変わって新しくなっている。その新しいホームはキレイになっていたが、無機質な印象を受けていた。
窓越しにホームを眺める。いつも通りだ。何も起きていないかのようだ。あんな事件があったというのに、何も変わりはしない。無機質な感じは、そのままだ。
京王線の職員も普段通り。心理的にはどうなんだろう。よくわからない。なんかいつものシステムがいつも通り動いている。そんな印象である。テレビやネットでニュースが流れ、犯人像や状況について、色々語られている。
でも現場であった場所は、何もなかったかのようである。システムは揺るがない。あの事件は単なるノイズのようだ。あの犯人も社会的にノイズ扱いされるのだろうか。
僕は社会的に考えるべき事件だと思う。だから、それなりに心理学や社会学などの知見で解説診断がなされるだろうとは思う。でも、それだけで理解したとは言えないように思うことがある。それは、このような狂気とも言える犯行があったときと同様に。
多分僕は彼を完全に理解することはできないだろう。彼の社会的境遇などに問題あり、それらが犯行の一因だったとしても。つまり、社会的に孤立していたとかいうアレだけでは。彼が僕でなかったのは、幸運なのかもしれないと思いながら。
なんだか人間社会は、僕たちの常識では計ることができない人間を生み出すのではないか。あの相模原の障害者殺傷事件もそうだった。秋葉原の事件も。人間にはこういう不可解な出来事が組み込まれているのではないか感じる。
だから、昔ならこういう人は鬼などと言っていて、理解を超えた存在であるとしていたのではないだろうか。
それにしても、国領駅のホームを窓越しに眺めながら、いつもと変わらない光景に恐ろしさも感じた。システムは何も起きていないのようにして、処理してしまい、人々はこの事件も消費するだけだろう。ジョーカー男なんて、見事な仕掛けでさえある。この消費もまたシステムの1要素である。
なんだか選挙でも何も起こらなかったように、事件も起きてはいないのではないかと、そんな思いを抱くが、それでは・・・・