スシローの迷惑行為が話題である。
僕にもそれなりの意見はあるが、問題を起こした高校生に厳罰を課すべきか、それとも若いので大目に見るべきか、そういうことにあまり関心がわかない。もちろん、その方向性や罰の強度で、日本社会がどのような社会なのかが見えてくるとは思う。
そういえばスシローの株が下がったので、米国なみの損害賠償で100億請求しろとか言ってるのもあるみたい。そういうことで100億払わなければならない社会が良い社会とは思はないが、そのような意見が出てくるということは、このような損得を金銭で計る社会が当たり前になっているのかなと残念に思ったりする。
次に狛江の強盗殺人から、主犯格のルフィと名乗る人物がフィリピンに滞在というか収監されてるという話も話題である。日本の治安が悪くなったとのニュースもあり、厳罰を求める声が高いのだろう。
そのルフィなる人物と芸能人のEXIT兼近さんという方が、若いころ親交があったことが取り上げられている。兼近さんの当時の環境から、半グレというか犯罪者との付き合いがあり、自身も犯罪を犯していたことを反省していると言っている。
その反省を見て聞いて、兼近さんを応援する声も上がっている。しかしながら、時間が経とうが「許される行為ではない」との意見もある。で、僕はどちらの意見が正しいかということを言いたいわけではない。
あの高校生もルフィと名乗る人物も、兼近さんも、日本社会ではこれから穢れを背負わされていくことになるのだろう。濃淡あるにしても。
法的な解決は法的に行ってもらえばいいのだが、彼らに今後つきまとう穢れの感じは法とは違う水準にある。こういう時、いつもビクトル・ユーゴの『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・ジャルバンを思い出す。
ジャン・バルジャンは幼い時パンを一斤盗み、19年投獄され釈放されるが、荒みきっている。そこでまた世話になったミリエル司教の銀の燭台を盗んでしまう。これまた捕まるが、司教は「譲った」として、彼は解放される。その後彼は改心し工場を成功させ町を豊かにし市長にまでなる。しかしながら、彼はある警察官に目をつけられ、隠れながら生きていくことになる。
どんなに良いことをしようとも、一度犯した罪、あるいは善意で行ってしまったが結果的には罪は、彼につきまとう。刑期を終えたから、それで罪は終わるのではなく、世間の眼差しや、官憲の追求からは逃れることはできない。
日本では、このような罪は穢れとして身にまとわりつく。彼らもまた、善行を重ねたとて、あるいは彼らの周りの人たちが許したとしても、世間の何処かから蔑視が彼らを突き刺す。そして、その空気を感じながら生きるということが待ち構えるに違いない。
今彼らを断罪しようが、寛容の精神から許そうが、世間は忘れない。思い出したように、そして無責任に、あるいは意識しない蔑視でもって、彼らを苦しめることがある。そういう矛盾する社会の中で生きていること、そういうことは意識化されないと思う。
現実自体が意識化されない、そんな気がする。