昨日は親鸞の教えから、ネットの「呪い」の言葉について考えました。
今日はその続きを書いてみようかと思います。どうして妬み嫉みに支配されるのかというと、実存的な寂しさがあり、それを自覚できないからとしておきました。これを裏側からいうと、他者が喜ぶことがあっても、喜べないで、その心が妬み・嫉みに向かうということになります。
ここにある状況は、明らかに私と他者を他人として位置付ける心です。今の時代、私なるものを絶対化してしまう傾向がありますが、私など他者で作られているという事実を忘却しています。社会学者G・Hミードの自我の社会性でも参照してください。
それはともかくとして、他者が喜んでいることを喜べないという事実は、他者の喜びを喜べない私を自覚できないからです。この自覚を自己言及性と言い換えることもできます。私は何か行為をします。と同時にもうひとつの私は、その行為を見ていて、その行為に判断を加えています。だから「私」というのは「行為する私」と「判断する私」両方を併せ持つわけです。
実はネットで「呪い」の言葉を吐く人もまた、それが悪口にすぎないと知っているのです。ところが「判断する私」が自己正当化を図るわけです。この「判断する私」が知性の悪い部分です。深層では悪いとわかっていても、知性の働きで、自分は正しいとしようとするメカニズムに向かうのです。
ですから俗に頭のいい人は自己正当化をする人ですから、悪いことを認めません。
人間と動物の違いは、この自己言及性の能力の違いにあります。動物は自身の行為を自己判断することはあまりないのです。猿が頭がいいとか、イルカが頭がいいとかという時、その行為の善悪を判断するわけではないのです。そもそも善悪という概念さえ持たないでしょう。
寂しさの自覚も同様、寂しいと感じ、そこに自己言及(考えること)を加えることによって、寂しさの意味が現れます。それが仏教では、寂しさは煩悩であるため逃れきれないとしています。ここからは宗教的になりますので、阿弥陀如来が登場するのですが、信仰の領域のようです。
ここで確認したいのは、寂しさの自覚、その欠落です。人間とは、欠落から抜け出そうとして、もがき苦しむ存在ですが、その欠落を知らないからです。
そして、この欠落を知るには自分の力ではなく、どこからかやってくる。それを心とか魂とか、哲人が名付けていたように思うのです。
寂しさを自覚することもなく、上っ面だけの関係(ネットでのつながりでもいいのですが)でつながっていることを、つながっていることだと思い込み、大勢の中で生きて寂しさを持ちながら(欠如を自覚せず)、自分は正しいと自惚れる、それが人間でしょうか。
他者と生きていながら、ひとりで生きていると思う、そのような洞窟の中で生きているのではないかと・・・