昨日3月28日、安倍総理がコロナ対策について記者会見を行った。内容については省略。まずは会見をテレビで見た感想を少しだけ。
安倍総理の言葉はたいそう勇ましいように感じた。自らリーダーシップを発揮していることを暗に強調しているように思えるのだ。会見の印象とこれまでの彼の行動を見てきた上での僕なりの評価なんだが、どうしても言葉に心を感じない。まあ僕の穿った見方とでもしてもらってもいい。
質問に対しては再度専門家会議で決める旨、という程度という場面もあったので、適切な対応をするためであるとの意味であろうが、どうしてもその場を逃れるような言葉に感じてしまった。
結局勇ましいという印象を国民に与えようとするパフォーマンスなのだろう。あるいは政府の対応には落ち度がないという印象操作をどうしても含んでいるのだろう。あるいは安倍シンパに向けたものでしかないのかもしれない。
彼の言葉や表情、しぐさから、本当に困っている人を思ってという印象が湧いてこないのである。今までもそうであったし、赤木さんに関する質問の受け答えにも、彼の言葉はいつも上滑りしている。
次にコロナ疲れ、自粛疲れについて。
そういう気持ちもわかるという話を散見する。しかしながら、そんなことはどうでもいい。問うべきは、こういう時に家で過ごしたり、家族と共に過ごす能力が問われているのだ。そもそもこういうことを能力とは思っていないだろうが、文化能力である。
若者が暇に耐えきれず、若さゆえ仕方がないとか言われることもある。が、ある意味で危機的状況にあって、そいう中でも生活する能力がないということになる。テレビやゲーム、ネットだってあるではないか。それらに飽きたとして、少し時間を大切にして過ごせばいいし、そういういい機会でさえある。
どんな時でも、遊んで、面白おかしく過ごすことを良いとする考え自体が広がっているのだろう。しかしだ。いつまでも続くわけでもあるまい。少しの間、静かに過ごす力さえないというのであれば、それこそ常に浮ついているだけである。
最後にコロナに関して情報が常に増加している。科学者によって、違うことをいうことも多々ある。それをメディアが取り上げ、それらを一般の人がSNSで拡散したり、自分の意見を自由に語ったりする。まあ、この僕のブログもそういう程度のものだろう。
情報エントロピーの増大である。つまり、メディア・テクノロジーの進化は情報の増大を伴い、個々人の情報処理を困難にしてしまう。何が正しい情報なのかわからない状況を作る。そもそも科学者によって見解が違ってさえいるし、データの解釈などが入り組んでしまえば、それらを一般の人が理解することが難しくなる。さらに政治的思惑が組み込まれれば、その思惑を予測しなければならず、混乱した状況になる。真理は不明だ。
しょうがない。静かに過ごすことにしよう(笑)