Drマサ非公認ブログ

凡夫であることを知る

 ネットには「呪い」の言葉が溢れていると言ったのは、哲学者の内田樹さんである。僕もまた誹謗中傷、誰かを貶める言葉を見るとゲンナリする。こっちまで意欲が失せるのだから、ネットの言葉の「呪詛」性に影響を受けているのだ。

 いつもネットの「呪い」の言葉を吐く人から想像してしまうのは、親鸞の凡夫である。

 凡夫というは、無明(むみょう)煩悩われらがみにみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず(『一念多念文意』)

 簡単に意訳してみると、凡夫(愚かな者、無知な者、凡庸な人、一般の人)は煩悩に満ち溢れていて、欲も多く、怒り、腹立ち、嫉み、妬み心で支配され、いつ何時でも死ぬ時まで、そのような思いを抱いて、その思いを止めることもできず、消すこともできず、絶えることがないものである。

 ネットにはこのような凡夫で溢れているわけであるし、ネットが出現する以前には見ることもなかった他者の煩悩を見なければならなくなったのである。だから、内田さん的にいえば、過去の時代よりも、「呪い」の言葉に晒されなければならない時代に生きているのである。

 あるブログを見ていたら、当たり前のように「あるブログ主」を上から目線で揶揄する者がいた。その揶揄の中身が、揶揄するために揶揄するような言葉であるから、「あるブログ主」のマウントを取ろうとしているだけであった。

 ちなみに僕は「あるブログ主」のブログに揶揄しなければならないこともなく、謙虚な姿勢であると好感を持っている。それでもなお、その謙虚な姿勢さえ、揶揄するのが凡夫の凡夫たる所以であろう。

 でも、そのネット空間で少しの賛同者でもいれば、勝ったようにでも思うのであろうかと思う。そこに妬みや嫉みを見てしまうのは、拙速ではあるが、まさにネットでの言葉を発する者が、凡夫であることを示すことであろうと思う。

 そして、この僕もまた凡夫である。この親鸞聖人の言葉は、他人を批判する言葉ではなく、私もまた無明煩悩に満ちていることを自覚するよう語っているのだと思う。

 ですから、僕もまた妬み嫉みの根を持つのでしょう。確か親鸞は、妬み嫉みは寂しさから来ると言っていたと思います。

 ところが、寂しさの自覚が難しい。周りに人がいたり、ネットに賛同者がいると、寂しいとは思わないからです。ところが、人間存在にはどんな状況であれ、寂しさが宿っている。その自覚から始められなければ、誰もが「呪い」の言葉を紡いでしまうのだと思うのです。

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