東京オリンピックの開会式担当の小山田圭吾氏が学生時代に障害者らをいじめていたとして、ネットを中心として取り上げられていた。
結果、小山田氏は謝罪し、オリンピックの楽曲担当を辞任することになった。さらに小山田氏の子供にまで攻撃が激しくなっているという。もうよく知られたことだと思うが、僕なりの見解を述べようと思う。
当然だが、小山田氏のいじめは許されることではない。その内容については、ここでは触れない。十分知れ渡っている。いじめという言葉も良くないと思う。単なる虐待、犯罪ではないか。それをミュージシャンとして成功したのち、雑誌等で吹聴していたのだから、彼は自分が犯した“罪”を理解していないのだろう。
ところで、現在は謝罪したが、その“罪”を理解しただろうか。このぐずぐずの辞任からして、あまりそういう理解を想像するのは難しい。
あまりこういう言い方をしたりはしないのだが、基本的人権を考えた場合、当時の小山田氏の行為は基本的人権を無視した行為である。テレビで「時代の価値観を知りながら評価しないとなかなか難しい」と評したタレントがいるが、言語道断である。
近代になって、基本的人権を守るとの約束をしたのである。そしてこの人権は普遍的概念であるから、近代以前に基本的人権を無視していた行為もまた許されないとなるのである。時代と地域を乗り越えているから、普遍的な概念なのである。
戦時にに女性暴行があった場合、時代の価値観だからしょうがないとはならない。基本的人権から非難しなければならない。だから、戦時の女性暴行を非難するし、しなければならない。そういう風に決めたのである。それをみんなの約束にしたのである。
ただ日本人には、そういう人権が普遍的価値であるとの認識にまで高まっていない。雰囲気で人権というだけである。だから基本的人権に反対するのであれば、そういう地点から始めなければならない。だから、かのタレントが言う「時代の価値観」から判断してはならない。いま現在の価値観で行うしかないのである。
そして、いま現在の価値観に問題があると思うなら、時代や地域で比較しながら、よりよいものを探すのである。逆はない。小山田氏のいじめは今も昔も許されない行為であることは当然である。
では小山田氏は許されないのであろうか。法律のことは法律に任せればよい。ただ小山田氏は一生この問題を抱えていかなければならない。彼が行ったいじめ(虐待)は、その当事者の心をどれだけ傷つけ、そこから立ち直るのが困難であるのを考えてみたらよい。
いじめを受けた当事者が何十年も経つというのに、その事を思い出すこともあるし、そういう心で生きてきたのである。『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャンが家族のため盗みを犯し、しかしながら街を富ませ、人々を救い続けていたにしても、罪を犯した人間であるということからは逃れられなかった。これは小説に過ぎないにしても、現実に誰が彼を許すのか、誰なのかわからないのである。ましてや世間である。
小山田氏の子供がネットで晒されているが、まさに因果応報。世間というやつの汚さを思いしっただろう。小山田さん、あなたがあの時世間だったのですよ。今やっと過ちを真に知る機会が訪れたのです。
ただ小山田氏の子供を支えてくれる人間がいることを願う。小山田氏は罪を背負って生きるしかないのである。