日本には民主主義的風土がないと思う。それはどうしてか。
ずいぶん難しい問題であるが、少しばかり示唆的であるとは言えることがあるので、ここに述べようと思う。
あくまで民主主義は西洋産である。日本は制度上取り入れているが、その内実はどうもそういう政治意識が成り立っていない。考えてみれば、中国だって同様だ。
実は日本の天皇も中国の皇帝も人前には出ない存在であった。天皇が人前に姿を表すなどは、例外中の例外でしかないし、明治以降、さらに第二次世界大戦以降、さらに週刊誌やテレビで取り上げられるようになって以降だ。つまり民衆の前に姿を晒さなかった。そここそが天皇の神聖性を作り出すメカニズムでもあった。
同様、中国の皇帝も民衆の前に姿を見せることはない。あくまで官僚、宦官との関係は深い。僕が好きな清朝を描いた中国ドラマに如意伝がある。そこでは皇帝達が旅行する場面があるが、そこの民衆の中を皇帝夫妻で散策する場面がある。そこでは民衆に気づかれない。つまり知られていない。
両国に共通するのは、為政者が民衆に知られていない(有名人ではない)が、神聖性を持つ。そのため、民衆は為政者を批判したり批評したりするlことが許されていなかった。例えば、天皇ではなく幕府であっても同様の傾向があり、幕府の批判などを落書きしてはいけないという法律(おふれ)があったくらいだ。
もちろん例外もあろうが、為政者批判をするのが当然であるという社会意識自体が希薄であった。こんなことを想定できるのではないか。ゆえに民衆が国家の批判をするということは、戦後民主主義の中に多少生じた。その程度のものではなかったか。ゆえに封建的な雰囲気が残るし、どうも意識せずとも権威主義やパターナリズムを受け入れる。
それと比較して、西欧は違った。なんといっても西欧の歴史であればローマ帝国である。で、ローマ皇帝。なんと人前によく現れる存在であった。有名な競技があれば、主賓として観戦したりした。
そこで、ローマ市民は皇帝の観戦態度を批評する。競技自体を見ていないと悪評が立つなど。だから、ローマ皇帝になることを嫌なことであるかのような風刺がはびこった。
そのようなローマ市民の考えが何に表現されているかといえば、グラフィティ(落書き)である。そこで市民が悪口を書いたとして、日本や中国のようにお咎めがあるわけでもない。民衆は為政者を民衆の目で言いたいことを言っていたのでしょう。
そして、皇帝もまた民衆にどう思われているのかをいつも気にしていた。暴君で有名なネロは、民衆の前に現れる時は、華美な衣装で人目を引いているほどで、つまり人気を気にしていたのである。これって、ちょっとしたポピュリズムの伝統につながるようにさえ思う。ネロは死後も大人気の皇帝であったぐらいだ。逆に寡黙な皇帝は人気がない。そんな感じであったという。
この為政者と民衆の関係こそ、現在の民主主義の礎であったのではないかと、そんな仮説を抱いしてしまう。やはり、日本にはないと思う。為政者を観察し、問題があればみんなで話題にするという土台としての政治意識が。