(仕事で部下が問題起こして、少し止まっていたのですが・・・)
さて、日本に民主主義が根付かないことを西欧の皇帝と日本の天皇の比較から想像したのですが、そこらあたりの想像を膨らませようと思う。
西欧であろうが、日本であろうがパターナリズム(父権主義)であることに違いないのだが、実際の父親との関係ではなく、権力との関係で見て行くと、日本のパターナリズムの方が徹底されていると思われるが、どうだろうか。
西欧では、為政者を平気で批判する。そう、態度が悪いとか、その程度でも。西欧の身分制でも、当然のこと、格差はある。しかしながら、前回指摘したように、民衆の前に姿をあらわす。ちょっと忘れたが、王様が王様であるには民衆が必要であるという王権論があったと記憶している。その相互性が為政者に口出ししてもいいという社会意識を自明視するので、意識にさえ登らない。
例えば、かの有名なマリー・アントワネットがバルコニーに出て民衆の前に現れた時、彼女は民衆に向かってお辞儀をしたという。これは礼儀正しいというよりも、民衆の目を意識することが自明であったがゆえに、民衆に嫌われないようにということであったとされる。まあ結局断頭台行きなのですが。
では、日本はどうか。大きな違いがある。フランスでは為政者を民衆が殺したわけだ。日本では、流石にない。日本にも晒し首があるくらいだが、あくまで犯罪者の処刑を公開して、見せしめにしていただけ。その意味で、犯罪を犯せば「こうなるぞ!」と脅しているわけだ。
武士(軍人)同士で首を取ったということとは意味が違うのです。
西欧では、皇帝といえども民衆と近い。日本では、天皇あるいは為政者と民衆の関係は遠い。これが「お上」意識に違いが生じる原因か結果かは、歴史的分析でもしなければ、主張できないが、日本では「お上」をパターナリズムの上位者、権威ある父親に据え置いているのではないか・・・そんな想像をしてしまう。
同じように雲の上の存在としていても、その内実は違う。ここに民衆が民主主義的な関係を権力との間で当然とする社会意識が成立しないのではないかと思う。
ちょっと話は脱線するが、中国は民主主義国家ではない。あくまで共産党独裁ですし、権威主義国家である。しかしながら、中国は中華人民共和国と「共和政」であることを国名に付けている。
現在の習近平を中国皇帝とすれば、中国の皇帝は易姓革命が下敷きの社会において、皇帝は民衆を不幸にした場合、交代しなければならない。その意味で、民衆のことをいつも気にしていて、日本とは違う。その意味で皇帝を抱く共和政なのではないかと仮説は膨らんでいく。
政治学者の福田歓一先生にご意見を伺ったら、どう答えるだろう。