僕の住むマンションの向かいには、トランクルームがある。そういえば、あちこちトランクルームが増えていると感じる。25年前にそんなものあっただろうかとも。
実際トランクルームの市場拡大なんてことも言われているらしい。とすれば、経済的に意味があることなのでしょうが、僕は当然そんなこと思わない。人々の所有物が増加して処理できずにいる、あるいは資産だといって捨てられないでいる。そんな風に思ってしまう。
欲望。欲しいものを手に入れる。できる限り手に入れる。そういうことが当然、あるいは良いことであると思われている、そういう社会になっている。その反作用として、断捨離とか終活での身辺整理などが話題になる。
実は僕は欲しいものがあまりない。タワマンに住みたいという人の欲望がわからない。一応理屈では理解できるが、腑に落ちない。住んでいる知り合いに聞いたことがって、「成功の証」と言っていたが、その成功とやらがタワマンで等価交換できるかのように信ぴょうされるのも、腑に落ちない。
まあカッコつけているとか、虚栄心を満足させるという程度の理屈としては理解できるが、そのような虚栄心などになんの価値があるのか、さっぱりわからない。いや、「さっぱりわからない」と言っている側から、それが虚栄心であると理解しているので、わかっているといえば、わかってもいるようだ。
まあそういう虚栄心を満足させるアイテムは色々あるようだけれど、そんなものを手に入れるよりは、生きている事の意味にはならないとは確信している。そもそも人生がなんであるのかという事からは、実に程遠い。でも、そう思われていないようだ。
で、トランクルーム。タワマンほどではないにしろ、人々の所有への欲望を表している。だから、家の前のトランクルームには所有という欲望がいっぱい詰め込まれているように思えてしまう。しかしながら、繰り返しになるが、モノを処理できず、つまりは欲望が生活を乗り越えている、そういう社会に日本はなっている。
しょうがないので、自ずから整理縮小の方向に向かうしかないようにも思える。このような方向性は、死という人間にとって絶対的存在(無)から、余計なものは持たない、モノは捨てるほうに、ついには要らぬ人間関係も整理に向かい、ついには「私」自身の整理へと繋がっていくようにさえ思われる。
僕も本が多くて困っているので、整理に向かいそうだ。妻だけは横にいてもらいます。これも欲望かなあ。