テレビを見ていて、「やっぱり言葉にしないと伝わらないので、伝えることが大事」っていう感じのことを言っていた。だいたいは日本人は言葉にして伝えることが下手くそという文化的な傾向があると信じられているからだろう。
ところが、言葉は必ず伝えられないものを含む。例えば、僕が心底愛している人に、僕がどのように愛しているのかを伝えようとする場面を想定しよう。実際そんな場面はないだろうけど。
僕は言葉を尽くして思いを打ちあけようとする。しかしながら、どうしてもその思い、気持ちを表現しきることができない。当たり前だ。思いや気持ちは心の中にある。言葉は言葉であって、心とは異なる存在である。言葉は心の外にある。普段そんなことは考えないものだが。
それでもどうにか伝えようとする。そこで色々言い換えて見たり、手振り身振りで表現しようとするが、やっぱりうまくいっていると完全にい言うことなどできない。
そうすると、言いよどんだり、つっかえたり、言い間違えたりする。そうすると、その上手くいかなさに「気持ちを伝えられない」という苛立ちや動揺が生じるだろう。つまり真実を伝達することに、僕は間違いなく失敗する。
ところが不思議なことに、僕が言いよどんだり、つっかえたり、間違ったりすることが、逆に僕の誠意や愛情を伝えてしまうことがある。つまり、言葉で伝えられないことがあることが伝わるのである。そうすると、なぜだか愛情は伝わる。
僕が言葉たくみに語ってしまえば、おそらくそのたくみさに嘘を見てしまう。たまにそれが嘘であると気づかない人がいる。そういう人は騙される。
面白いのは、適切な言葉が見つからず、そこで悪戦苦闘するからこそ、逆に僕の愛が、あるいは真実が表現される。いや、表現されてしまう。作為性がそこにはない。だから、このような真実を語るという行為は、その語る行為に真実性が宿ってしまう。語る言葉(内容)の方ではない。
そして、それが他者に伝わるというためには、僕の力量ではなく、僕の言葉や行為を受容する他者の力量次第なのである。僕の愛情が伝わるのは、僕の愛情を受容する他者の方がそれだけの包容力や関係性があるからであって、僕の力だけではどうしようもない。
冒頭テレビで「言葉で伝えなければ・・・」というのが成立するには、そのように言う本人にそれだけの力量があるか否かという問題であるし、そういう関係性が紡がれてきたかという問題なのである。
通俗的に「伝える」ことに価値があるとなってしまっては、結局は伝わらない。最近日本の以心伝心が成立しないというのは、「伝える」を成立させる人間関係自体が脆弱になってしまったからに他ならない。