Drマサ非公認ブログ

大谷はウルトラ社会的人間かな

 WBC以来、毎日毎日大谷翔平のニュースで溢れている。

 そして、大谷は過去の日本人とは異なる価値を体現しているように思う。加えて過去の日本人にはなかった世界規模のスーパースターとして賞賛されている。それは日本人に賞賛されているだけではないという点で、過去の日本のスターを乗り越えている。メッシやマイケル・ジョーダンに並び称されるような名声である。

 とはいえ、本人はそのような名声や獲得する金銭的規模になんだか無頓着な感じさえする。本当のところはわからないし、無頓着であることが生み出す(非)政治性の問題だってあるに違いない。そのうちそんなことも指摘したいのだが、好きな野球を最もレベルの高いところで楽しんでいるという子供の頃の夢がただ進行中という感じだ。

 社会学者のガブリエル・タルドに「ウルトラ社会的人間」という概念がある。僕は大谷にその概念を適応できるのではないかと思う。

 タルドは『模倣の法則』で、欲望を模倣として捉え、欲望をその対象ではなく、欲望のモデルとの関連で捉えた。ここでは、その欲望のモデルが大谷翔平であるという説である。この欲望はなになにが欲しいということではなく、「誰々のようになりたい」というものである。

 別に大谷のようになりたいというのは、大谷自身になりたいというだけではなく、大谷の言動に現れる価値観や規範の模倣として現れる。有名人を模倣するというのは、髪型を模倣するとか、ライフスタイルを模倣するとか、スローガンを模倣するとか、色々あるが、分散的な諸個人がこの価値観や規範によって結合する。それは社会のありようをある程度説明してくれている。

 特にその卓越性に人々が憧れ賞賛すれば、その威信に人々は依拠しようとする。簡単にいうと、人々の手本になるような存在となるというか、なってしまう。かつてなら、戦後の意気消沈した日本社会に力道山が現れ、街頭テレビの中で大きな米国人(本当は米国人ではなかったりした)を空手チョップでなぎ倒す姿に、対米コンプレックスを払拭するかのように日本人を鼓舞したという”神話”がある。

 大谷は令和に現れた日本人を鼓舞する存在である。このような卓越性を有した個人を「ウルトラ社会的人間」とタルドは名付けている。力道山が負けた米国を打ち負かすという超越性を見せ、昭和の人々は魅了された。同じように大谷は世界のスパースターとして超越性を見せ、令和の人々は魅了される。

 この大谷と令和の日本人の感情的同一化は、大谷が換喩する卓越性を媒介として、社会生活の革新性と発明性の現れとなっていく。

 ひょっとして日本人が変わるだろうか、そういうことを考えてしまう。そういう象徴なのかもしれない。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「社会」カテゴリーもっと見る