録画しておいたテレビ番組を見ていた。内容は整形の失敗例である。失敗が強調されるだけではなく、医療の進歩による再建にも驚かされる内容であった。
「正常病」という言葉をご存知だろうか。正常であることを求めることによって、逆説的なことだが、異常に、不健康になってしまう、そういう概念である。そこには自分は正常であらねばならないという強迫的な思い込みがある。
例えば、血圧。血圧の正常値というのが設定されている。高血圧の基準は家庭血圧で135/85mmHg以上、診察室血圧では140/90mmHg以上と定義されている。一方で正常血圧の定義は家庭血圧で115/75mmHg以下、診察室血圧では120/80mmHg以下とされている。
しかしながら、その昔血圧の正常値は違った。そういう類の話はネットに転がっている。正常値の設定が低すぎるので、少し高く設定したという話もある。統計というのは、個体差を無視して、なんだか世の中にある中央値、それを正常と見なすような考えを作るように思う。
160でも、日常生活ができていれば問題ないのだが、今度はほかの病気につながるというリスクを見出す。これは科学が発達すると、見えなかった、あるいは気にしていなかった可能性が可視化され、そこに対策を立てようとする営みを必然化する。これ予防だ。
しかし、このリスクが現実となる可能性は低い。そりゃ、科学や医療が発達すると、社会全体で強迫的な思い込みが広がる。リスク社会と言われるものだ。
正常病ということであれば、血圧を測る機械が売られているから、血圧を測って健康に役立てようとする。ところが、たまたま数値が正常値ではない場合、不安をかき立てることになる。統計的には正しい知識なんだろう。病院の医者も看護師も、これを知識として共有している。ついでに患者まで。
しかしながら、あくまで統計なのである。統計は個人の多様な生活を捨象して、統計事実として世の中に出回るのであるから、個人の現実ではない。この統計という存在の社会的位置づけを、人々が理解しているわけではない。しかし誰にでも当てはまる現実のように振る舞う。
だから現実は個人の遺伝や環境、生活習慣など人生を含めた数え上げきれない要素で構築されている。そもそも要素として取り出し難いのだから、どんなにいっても操作的に位置付けて、現実それ自体にはならない。
このようなリスク社会にあって、人々は自分自身に対して強迫的なり、他者に対してさえも、やさしさから発する言葉がこの強迫の上から立ち上がる現象であるから攻撃的になっていることさえある。医者が「血圧気をつけて」と一言発することさえも。「気をつける」べきか否かの境界線をどうやって引くのだろうか。
結果、正常であることに囚われ、これが社会的真実かのように規範化され、この規範にしたがって生きていく。さて、この規範が曲者だと社会的に共有される社会はあるのだろうか。