医療が病気を作るのを医原病という。要らぬ薬が処方されれば、薬は身体にとって当然毒であるから、毒が作用する。そうすれば、なにがしか症状が出る。こんな悪いサイクルが生み出されれば、病気は広がる。当然のことだ。
検査検診等で数値が出る。正常値が設定されているから、その枠を踏み外せば、病気か要注意となる。検査項目を増やそう。増えれば増えるだけ、正常値を踏み外す。そこで生活指導と薬。
例えばメタボ検診。メタボという概念を設定。そこで正常値も設定される。正常値から外れる人間は異常(正常ではないということは対概念として異常が準備されている)なので、病気に接近する。
しかしだ。当然これらは概念。現実ではない。だから誰かが設定した正常の枠組みの方もまた再考されるべきものであるはずだ。血圧の正常値なんか、国際的に見れば低すぎるといって、変えたではないか。
あるいは当の本人がどのような生活環境にあって、どのような生活をしているのか、そこに抑圧的な要素がないのか洗い直す必要がある。そりゃ、毎日朝晩満員電車を我慢していれば、精神的に調子が悪くなるのも当たり前、そこでストレス解消として暴飲暴食やらなんやら。そりゃ、なんらか正常値から外れるに決まっている。
こうやって、医療が生活領域全般に広がることを医療化medicalizationという。なんでもかんでも医療なのである。それ自体が病的ではないか。
そして、このブログの前回の冒頭あげたのは整形の失敗であった。失敗して、そこで何を持って対処するのかといえば、これまた高度に発達した整形技術医療である。
たまたま見た事例では、よりカッコよく、より美しくという欲望を達成するために整形が行われる。この「よりカッコよく、より美しく」という欲望は、社会の中に流通する「よりカッコいい、より美しい」というイメージであり、それを人々は理想とする。
近代病ではないか。モデル(近代modernとはmodelを設定して接近する方法を必然とする)の設定である。ここにあるのは現実否認である。少し考えてほしい。自分を否定する人間がどのような人間か。ついには生活所領域全般の最も根幹である人間の容姿に向かう。倫理学でよく言われる顔という存在が持つ倫理性が喪失する社会。そんなことを考えてしまう。
そんなこと言う必要もなく、ただの煩悩でしょ。煩悩に人間は引きづられるけれど、同時に「欲深いな」と反省したものだが、そのような倫理が失われ、表層的に他者からよく見られること、それが最も重要な価値観になっているように感じるのは僕だけだろうか。