自然欠乏症候群は米加では教育関係者を中心に意識されるようになっています。ただ日本では、そのような社会意識はあまり聞きませんが、哲学や社会学、心理学などにそういう芽があるようにも思えます。
例えば、人の自然環境に対する好き嫌い、どのような自然を選ぶかには、生物が進化する基盤に欠かせない何らかの生得的な作用があるとされます。これは生物学者Wilsonによるものですが、当然日本の研究者にも共有されています。
当たり前といえば当たり前です。なぜなら人間の感覚システムは自然環境の中で培われ、現在のように進化してきたからです。つまりは自然環境こそが人間の感覚の基盤(大地)です。大地のないところを歩くことも住むこともできません。
ちなみに日本では花鳥風月として、自然を愛でてきました。それが和歌や俳句、絵画の素材となったのはよく知られるところです。この日本の芸術は西欧のそれと比較して、次の点で優れていると思います。
西欧においては、自然は人間が対象化する存在です。自然を人間がコントロールすることが前提になります。このような見方は、人間は自然界における例外的存在であるとの「人間例外主義」と言われます。昨今の環境破壊の問題から、このような考えに反省がなされているのは周知の事実です。「新環境パラダイム」「新生態学パラダイム」と呼ばれます。単純化すれば、人間も自然の一部であるということです。循環なのです。流れです。
ですから日本の芸術の根っこにある自然を愛でる感情は、花鳥風月を美しい、可愛らしい、哀しいと思う人間の自然の感情と連なっていることの表現なのです。これを自然との心理的つながりと言います。僕は包摂し包摂される関係と言いたいところですが、そんなことはうまく説明できません。
とりあえずは自然との感情的なつながり、情動的一体感です。別に難しいことではありません。誰もが知っていることです。夕焼けを見ると、美しいと同時に寂しいという感情が勝手に立ち上がってくる、あのような経験です。
環境破壊とは、この観点からすると、自然とのつながりを、情動的一体感を切断する行為です。辺野古の海に工事が入ります。それを見て、悲しいと思うことは当然なのです。生活のためとか、地域経済のため仕方がないとの意見は、情動的一体感を切断する行為ですから、自然から離れていく行為です。当たり前のことです。
実はこのような自然との関係に問題が生じているとの認識はマルクスにあると言っていいと思います。最近マルクスの再解釈がなされ注目を浴びているのは、資本主義が自然破壊を必然とするために、エコロジーが大切であると主張されていたからで、そのようなマルクスを発見したということなのです。
マルクスの物質代謝論と言います。経済的活動は必ず自然との関係ですから、人間と自然のあいだの物質代謝を, 人間の経済活動を主とした生命活動に大きな作用を及ぼします。つまり経済活動は自己言及的に人間の経済だけではなく、人間の状況に影響を及ぼすわけです。卑近な表現をすれば、森林を大量伐採し、化石燃料を使い、農薬をばらまけば、人間の方に負の大なる影響があるということです。
今このブログで取り上げているのは、人間状況の健康や病気に関わることです。それを自然欠乏症候群と概念化して、その内実を紹介検討してみようと思うのです。花鳥風月の軽視こそが、人間の身体と精神に及ぶのは当然ではないでしょうか。
前置きが長いですが、続きます。