オリンピックで快進撃が続いていますね。ソフトボール、柔道、卓球、水泳、スケートボートなど金メダルです。楽しませてもらいました。アスリートの活躍に皆拍手喝采という感じでしょうか。
さすがコロナで喝采というわけにはいかないかとも思っていたが、テレビのアナウンサー絶叫だね。
それはそれで、よろしいかなとは思う。
ただ今日のコロナ感染者は東京で3177人。国内で9000人越えとのこと。ワクチンが進んでいるのかいないのかはっきりしない感じだが、感染者数が増加すれば、当然重傷者数も増加する。さらに死者数も増加する。ワクチンで重傷者数や死者数が減ったにしてもだ。
ついでに変異は続く。デルタ株だけで留まる訳もない。外国ではマスクしなくてもイイとなっていたが、軒並み要マスクに変更、ワクチンも3回するなどと先行きは不透明だ。自然はそういうものだろうとも感じている。
宮沢賢治の詩「雨にも負けず、風にも負けず」は誰もが知っていることだろう。この詩の中で、賢治は次のようにも言っている。
小さなかやぶきの小屋にいて
東に病気の子供がいれば
行って看病してやり
西に疲れた母がいれば
行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人がいれば
行って怖がらなくてもよいと言い
オリンピックアスリートは喜んでもいい。テレビなどで観戦する人も喜んでいい。ただ、病気や疲労、死の恐れのある人がいることをどこかに留めておいてもらいたい。賢治であったら、今オリンピックとパンデミックの中でどのような行動をするのか考えたいと思う。
人間は複雑である。単純にしてはいけない。多様性というが、その根本はおそらく、この喜びと苦しみ両方抱えて生きることだと思う。そういう矛盾した存在として人間がある。
確か哲学者の中島義道さんが、世界の何処かに一人でも不幸な人がいることを知ったら、それだけで幸せとは思えないと、どこかで書いていたと思う。
そういう矛盾を抱え、逡巡することもまた自由である。オリンピックで何かを忘れた時、僕たちは賢治のようにつながれるだろうか。