さて、これまで民主主義が悪政になることを見てきた。なんせロベスピエールなんか、民主主義の断行のために不満分子は粛清してしまう。現在の権威主義国家ロシアのプーチンどころではなかった。
ということは、民主主義はダメな政治体制のだろうか。かつて保守の西部邁が、民主主義が悪政であることをいつも強調していたことを思いだすのだが、しかしながら、小室直樹先生が言うように優曇華の花であるとすれば、ありうる。その心は?
民主主義は制度として民主主義を為らしめるのに前提がある。民主主義を実践するには、民主主義的な精神風土が必要であるということだ。いわゆる民度である。国民が民主主義がなんであるのかを理解し、いま行われていることが民主主義的であるのか否かの判断ができるだけの民主主義的な成熟が必要なのである。
制度としての民主主義と、国民意識としての民主主義、後者が成り立っていて初めて、民主主義が機能する。国民意識とすると、なんだか宙に浮いた観念めくが、具体的生活場面や、より政治場面での具体性において、民主主義か否かという判断が動き出すということである。
だから、民主主義という政治制度では、民衆あるいは国民が特定の政治制度上の単位、つまりは国家や自治体の最終決定権を持つといういわゆる辞書的定義が実現するためには、民衆あるいは国民が国家や自治体の最終決定権を持つだけの関わりを持たなければならない。
その関わりがなければ、民主主義自体は成立しない。
僕はかつて国家主義的といっていい自民党議員が、「日本は民主主義国家ですから」と言い、中国や北朝鮮との違いを強調した場面を何度も見たが、いくら政治制度上の民主主義体制を取ろうが、その内実、つまり民衆あるいは国民の意識がそうなっているのかを問わなければならないだろうと考えた。つまり、この民度の問題からである。
政治的無関心、いやはや社会的無関心がはびこっているではないかと。かつて「自力で生きていけない人は見捨てても構わない」かどうかという国際比較があった。日本ではなんと40%がそう考える。先進諸国では10%程度であったと記憶している(記憶を元に書いているので、微妙な間違いはご容赦を)。
ここに現れるデータを見るだけで、日本では民主主義が遠いことが想定できる。なぜならここでいう「自力で生きていけない人」を民衆や国民から排除してしまい、関わりのない他人とする意識が構築されていると思われるからだ。
民主主義には、他人を自分たちの仲間とする社会力が必要に思われる。