民主主義が国民精神になるためには、歴史の中で民主主義の実践が行われていて、それが伝統のようになっている、あるは人々が自明視する規範になっている必要がある。
リンカーン「人民の、人民による、人民のための政府」。誰もが知るゲティスバーグの演説。民主主義による政治の原則される。1863年であった。どうも当時の米国の政治状況や戦争状態での、リンカーン自身の正統性を補強するための文言であったのではないかとも思う。なぜなら、言論弾圧などの制限を行なっていたから。どうしても政治家の言葉にはプロパガンダ的な匂いが必ずあるように思えてくる。
とはいえ、この文言が民主主義による政治の原則として定着している。そして、この文言の思想的背景は社会契約説である。ホッブスでもロックでも他でいいのだが、自然状態の人間には色々不便が生じる。争いごとが生じるということだ。
西洋的思想では、結局力のあるものが勝つだけである。ついには社会に、単純化するけれども、人類に最悪の事態がもたらせられる、そういうことを想定せざるを得ない。そこで権威あるものが必要であると考える。政治権力、政府である。その意味で、政府とは争いごとの仲裁を行うことが仕事である。
そのような体制をとるためには、そもそも人民Peapleが集まって社会契約を結び、国家を作ることにした、という物語をPeapleが共有している、ということが前提となっている。争いごとは人民の生命と財産に関してである。これらを守る、やはり前提となっている。
少し脱線するが、今問題となっているマイナカードは当然人民の生命(健康)を含む問題であるから、そのようなもんだ意識が前提。国民負担率がおおよそ48%であるから、人民の財産の問題であることが前提。そもそも国家権力は人民が作ったものであるという物語を共有しているのだから、人民に奉仕するのが前提である。だから議会は人民の代表として、政府を監視するのが前提。特に政府の国家の運用について。
これ、民主主義の精神。日本で、普通に生活する人民Peapleはこのような民主主義の精神を持っているのか、そもそも議会は持っているのか、考察すべき事柄である。そのような精神を持っていないとは、すなわち近代以前の精神状態。封建制である。
日本国憲法がアメリカ産だと騒ぐ者がいるが、それはそれで議論すればいい。ただ現在の日本国憲法には民主主義の精神が書かれている。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。(憲法前文から)
これ民主主義の原則である。この原則自体が不要であるとか、意味がないというなら、それはそれで議論したらいい。ただ、いま現在は民主主義の原則を採用した、という物語で日本国は成り立っていることになっている。
このような民主主義の精神が現れた事例なんかも述べて行こうと思う。
(つづく)