LGBTへの差別発言、「生産性がない」として批判を浴びた杉田水脈議員がまた話題になっている。LGBT論は以前触れたけれど、気になるところがあったので、一言だけ。
統一地方選の応援に行った杉田氏に対して、彼女の目の前に迫って暴言を吐いた者がいて、恐怖を感じたとのことだ。彼女はそれを強く批判している。例の差別発言への抗議行動が高じた末の出来事であったのだろうかとも思う。
方法という点で問題があるのだとは思う。民主主義社会では、このような抗議をする上でも、法律は守らなければならないのだから、気をつけて行動しなければならないのかとも思う。
でも、人間はそういう法の範囲を超えてしまうことは多々ある。程度問題ではあるが、警察が情状酌量ありとしたり、僕たち社会の方がそういう行動への共感があれば、暴言を吐いた人物を社会は許容するだろう。そう願う。
僕が気になったのはそういうことではない。
スマホで見た記事にすぎないのだけれど、杉田議員が「差別してないので謝りません」と言ったとか。差別しているのか否かというのは、個人の気持ちに還元されない構造的問題だというのにだ。
「差別する気持ちはない」から差別していないとか、感情として「気持ち悪い」から仕方がないということを主張しがちだが、そういう気持ちこそ社会の中で培われて自然なものとして振舞っている現象に過ぎない。
つまり差別は気持ちや感情の問題であるけれども、その気持ちや感情は社会構造によって生み出された現象なのである。気持ち第一主義というか、社会の心理学化ということだろう。
差別は構造の問題なので、そこから逃れられる人間は存在しないかもしれない。しかしながら、差別が良くないことを僕たちは知っている。そのような意識からの行動が少しずつ構造を変動させる力を持つ。
ここはちゃんと杉田氏に聞かなければならないけれど、彼女がLGBTに対して差別する“気持ち”がないとして、自らを「差別していない」と考えているとしたら、その認識は不十分である。
構造として差別があるのだから、僕たちは常に次のような認識の地平に立たなければならない。
「僕たちこそが差別主義者である」・・・そういう懐疑の精神からはじめなければならない。