コロナで自粛不要論が散見される。
乱暴にまとめると、コロナになるのは当たり前だから、自粛しても遅かれ早かれ大差ないということだろうか。ましてや日本では理由は確定できないが、死亡数は少ない。よって自粛は意味がない。ましてや経済の落ち込みを考えればなおさらだし、経済でもっと人が死ぬに違いないと。
統計や数量として人を見れば、こうなるのかもしれないと思う。ただ以前も書いたのだが、人を数量化してしまえば、あなたにとってのかけがえのない人もただの「1」にすぎない。それは何かがおかしいのではないかと。
しかしながら、人間は「量化」された世界に住んでいる。このような認識をG・ベイトソンはパラダイムの保守性と言っている。金、効率、生活指標、GDPなどなど、あらゆることは「質」を後退させ量に還元される。あるいは女性解放の進み具合、報道の自由度、世界の幸福度などだ。そして、この「量化」された世界が思考習慣を作り、あらゆることに延長される。
今コロナの話で出てくるのは結局感染者数や死者数、それら統計処理された「量化」されたデータである。頭がいい人は、その数値を解釈し、事態を理解し予測を立てる。ここでは、そもそもそれらデータの信ぴょう性について取り上げないことにする。
この「量」というパラダイムは別に頭のいい人だけではなく、大抵の人に浸透している。しかしながら、「量」というパラダイムはそのまま真実ではない。「量」は一段上のレベルの設定で変化する。その一段上のパラダイム「質」が「量」を決定するので、「質」を考慮しなければならない。ちなみに「質」とは関係性である。
例えば、よく世論調査でよく指摘されることだが、問いのあり方によって、答えが変わる。「安倍総理を支持しますか」ということで支持率50%になったとする。ところで何をもって「支持」というのかは「質」的な問題で、デジタルに「支持」という考えがあるわけではない。ゆえに50%という評価は恣意的である。実際何をもって50%という評価になるのかといえば、操作可能なのである。アンケートは対面調査か、電話調査かで結果が変化することは必然である。ちなみに対面調査の方がより良いとはされるが、それもまた相対的なことだ。
よって、コロナでの検査数の結果(例えば昨日は38人)はその検査の方法あるいは目的といった「質」によって左右される。この時「質」とは広くはコロナと人間の関係、その「量」を作り出す政府とコロナと関係(見方)などになる。ゆえにこの関係は政治的である。当然「質」の方が本質的と言っていい。なぜなら「量」を規定するからだ。
ゆえにベイトソンは「量」に耽溺することは危険であると指摘する。
現在のコロナに対する対策は当然「量」的な把握からの帰結になる。しかし、演繹的に想像すれば、この「量」で指摘される「事実」は相対的な「事実」であるから、この事実を作り出した「質」がどのような志向性を持つのかを考えなければならない。だから私たちは政府の意図を想定して、そのありように対して評価する。
結局最終的に問われる「質」はなんだろうか。コロナ自粛論が依拠する「量」的把握をもたらす「質」はなんだろう。僕は一人一人のかけがえのない命を考えるとコロナ自粛論に違和感があると感じている。だからといって何が正解かはわからないのだが、そういう地点で逡巡してしまう。