人間が観察可能なのは現象だけである。なぜ観察可能かというと外部にあるからである。外部にある物は、見たり聞いたり味わったりなど五感に訴えてくる。いわゆる感覚である。
ところが、本質は外部にない。私たちの内部に存在するのである。ここは形而上学になるが、形而上学であるから、五感に訴えることも出来ず、自らの内に聞くしかない。そして、本質はその意味で感覚を超える。人によっては、感覚を超えるという言い方から、非科学的であるということになる。当然である。なぜなら科学は感覚に与えられた刺激を測定して行くことから始めるのだが、形而上学は全くもって異なる世界にあるのだから。
とすると、人間はこの科学的世界理解と形而上学的理解両方の矛盾的な世界に生きていることになる。実はそれだけではなく、現在統一教会が話題になっているが、人間の不安や恐怖という実存を実は形而上学ではない、宗教的に構築された解消方法に任せる事が多々起きる。
このような宗教は科学的世界からみれば、馬鹿げているだけである。また形而上学的には「考え」が足りないのである。当たり前だ。考えないから、そんなものを信じるのだから。
ちなみにこの形而上学的世界においての発見を、プラトンは想起説として位置付けているし、宗教では神とか阿弥陀様として名付けている。しょうがない。名前をつけるのだ。
ちなみにマスコミやネットの世論も、統一教会の教義も単なる情報である。であるから、情報は情報であるだけで価値ではありえない。なぜなら当たり前だが、自らの内なる対話=「考え」ではないからだ。人々はその事実に気づいていない。そもそも社会情勢の変化によって、変化するこれらの情報の意味(解釈)は、変化することによって価値ではなくなる。
今日価値があるとされる情報、例えば為替や株価でいいが、変化し古くなってしまえば、誰も見向きもしない。それは価値ではないからだ。だから現象。本質は変わらない。例えば本質を論じる哲学書は時代が変化しても、読まれている。古典に答えを探してしまう。それは価値があるという。そこではどうしても「考え」が必要である。ちなみにプラトンは「考え」を対話(ダイアログ)と名付けた。
だから本当は価値がないことを自分は価値だと思い込んで、あれやこれやの情報にあたふたしたり、事情通よろしく詳しいと自惚れるのは、なんだか滑稽に見えると思う。
なんだかコロナになって、こんなことに頭をめぐらしていた。まだまだあるけれど。