大谷翔平の問題が少しずつ明らかになってきている。
ESPNのニュースも読んでみた(https://www.espn.com/mlb/story/_/id/39784809/dodgers-shohei-ohtani-mizuhara-theft-line)。英語なのでわからない単語もあったけれども、理解できたと思う。コタツ記事で引用されているだろうから、日本でも当然紹介される。
まとめてみると、明確ではないのは、水原氏が最初に嘘ついたのか、それとも大谷を騙したのか、そして、大谷自身の関与があったのかなかったのか、あるとすればどのようなものであったか。そんなところで、当局とジャーナリズムが明らかにするだろう。大谷が自ら説明することもあるやもしれぬ。
で、やはり大谷にも責任があるだろうし、任せきりであったことにも反省すべきだろう。例えば、野球に専念するために、英語の勉強を疎かにしていたとか。野球に専心するとは聞こえはいいが、間違えば「野球ばか」にすぎないし、常識知らずということになりかねない。
彼のpurenessは欲望渦巻く世界では、悪用されることもある。ギャンブル依存の人間からしたら、そんな意図はなくとも、目の前にお金を持ってくる、それを手にしたいという欲望が換気されるに違いない。
とはいえ、大谷が野球で活躍してもらいたい。そういう気持ちを持っている。
と考えている自分自身を振り返ると、テレビやネットで大谷の野球を楽しむentertainしているということは、なんなのだろかと考えが巡っていく。たかが娯楽ではないか。それに心を奪われているのである。自分の暮らしなんか置いておいて、自身が生きることと直接関係ないメディアが提供する娯楽が生活の中心になったりしている。
一体人間が生きるってなんだろう。そんな問いが生じる。なんだか生きるということが娯楽を見ることになっている、そんな領域が拡大しているのではないか。
だからこそ、スポーツや芸能などの有名人を過大評価する意識が作られ、そのような意識が一般化拡大化し、憧れ、翻って、自分が有名人になることを欲望する。
そろそろ、そういう社会意識自体が相対化できる、そんなことは始まっていないだろうか。