振り返ると、このブログで、どうも政治的なこと、社会的なことを取り上げてばかりいると思う。まあそれは、不甲斐ない社会であるからとか、政治のおかしさであるとか、そういうことが目に余るからなのだが。
ひょっとして、少しは変化の兆しがあるのかとも思ったりする。例えば、統一教会のこと、ジャニーズのこと、皆知っているのに知らないフリでいたことがあらわになり始めるという現象。でもガス抜きになるだけで、旧態依然を保持したままってことになるのではないか、、、そんな気もしてくる。
まあ日本社会はダメだよと思う反面、それでも日本人なので、日本に期待もしてしまうのだろうか。まあこういう時は袋小路にはまり込んでしまうので、ちょっと目先を変えてみよう。僕なりの原点回帰。
哲学的な思考というか、存在と無、あるいは生と死という普遍的な形式の側から見ると、社会的政治的なことは現象である。現象というのはどういうことか。つまり、普遍と個別という論理からすると、個別的なことである。普遍的なことが本来問題というか、謎であるので、そこを問う思考、それが哲学や形而上学になる。
とすると、社会的政治的なことは個別のことであるので、それぞれの生活という水準に落とし込めば、どのように生活をするのかということになる。それが生活術とか、処世術とか、俗に言う成功哲学(これは明らかに哲学ではない)とかになる。
繰り返しになるが、これらは結局のところ、普遍的な形式の側から見ると、個別の現象に過ぎず、形式の方が有する謎(つまりは哲学)からすると、相対的なものの見方にすぎないとなってしまう。
これを社会的政治的なことに応用すれば、普遍的な形式からすれば、同様相対的なことであるので、社会的政治的な広がりを持つので、社会的な約束事、政治的な約束事についての理解や問いになる。そうすると、約束事なので、それは当然相対的なことなので、人間が構築してきたことなので、変化してもいいことになる。
まあ急激な変化に対応できないかもしれないので、ゆっくりと行う。保守思想。斬新主義。
急いでやった方がいい。変革を志向する。急進主義、あるいは現在の新自由主義なら加速主義。
とはいえ、両者に前提が生じる。約束事での認識。約束事が守られていないとすれば、約束を守れと言う。約束がおかしければ、約束事を変える。それだけである。
普遍的形式の方は、人間の基底であるが、約束事を基底とするかのように行為してしまうと普遍的な形式に見えてしまう。それが硬直化した政治や社会の根本。
やっぱり社会的政治的な方に戻るようだ。先にあげた統一教会、ジャニーズの問題、明らかに社会的約束事が守られていない。そこを変える、そう言うことになるのは必然だ。