医療とは病気を治す営みである。
ところが医療は病気を治すのだろうかという気がしてしまう。逆に病気を作るのではないかとさえ。
今日食事中にTVを観ていたら、「ワクチンで解熱剤を使っていいのか」という話をしていた。「発熱があれば、使うのには問題がない」という話に落ち着いている。
ワクチンの副反応への不安に対するものだが、ワクチンの副反応の原因は、当たり前だがワクチンのせいである。そこで発熱という問題が生じたら、薬を利用しましょうと。
しかし熱が出ただけなら、時間が経てば当たり前だが熱は下がる。当たり前のことだが、この当たり前のことが抜け落ちている。熱が出れば、薬を飲むというのが当たり前になってしまっている。
僕は薬(ここでは解熱剤)が必要ではないなどと言いたいのではない。医者は患者の状況を見て(正確には患者と位置付けていいのかは疑問があるが、便宜上患者とする)、薬を使うかどうかの判断をするのが役目なはずだ。
野口整体で有名な野口晴哉さんが『風邪の効用』(ちくま文庫)が言うように、風邪は身体の調整のためにあり、風邪が治ると身体の回復になるとするならば、薬を飲む行為は自ら身体を調整する機能を失って行く行為である。
ちなみに昔小児科の医者がいて、子供に全然薬を出さないので有名だったことを覚えている。僕が昔働いた病院の医者も、発熱で救急に来る患者に「家で寝てればいいのに」と。あくまで僕に言っていたことは付け加えておこう。理由は「そんなの自分で治るに決まっているじゃない」などと言っていたのを記憶している。でも「解熱剤を出して欲しい」と言われ、出していたが、その医者は「サービス業だよ」と話し、「なんのためのサービスかはわからないけどね」と自嘲気味に笑っていた。
ここで、こんな例を取り上げたのは、このような事例から見えて来るのは、たかだか僕の経験でしかないけれど、医療は病気を治す営みになっているわけではない、少なくともそのような例はあるだろうということだ。そして、医者も一般の人々もまた、そういう医療への“過剰”な関与を過剰とはみなさなくなり、日常化、自明化しているのだと思う。そうすると当然だが、必要ない医療が行われていることになる。
ちょっと頭をぶつけた。すぐCTだ。念のため通院しましょう。「何かあるかもしれない」などと医療に依存して行くようになる。そこで抜け落ちているのは、治る力は人間に備わっているという事実だ。医療が病気を治したような見かけをとるにしても、治ったならば、治るための力を与える主体(構造)は人間になぜか備わっている治癒能力である。医療はその補助である。仮に手術をしたとしても、その手術に耐える能力が人間に備わっているからであり、それが構造だ。
社会全体が医療に無批判に依存することを医療化という。医療化とは、医療なしに生きる世界を想像できなくするのではないかと思う。そして、コロナでますますそういう世界になって行くと思う。医療が社会全体を覆うことがいいことなわけない。