さて臨場感空間はSNSでも起きる。
ただ注意したいのは臨場感空間はそれ自体が悪いわけではない。脳科学的な説明は他に譲るが、恋愛も、ディズニーランドも、学校も、小説も、テレビも臨場感空間を作り出す。直接的な経験ではなく、テレビのような間接的経験でも作用する。
例えばコーチング。選手とコーチの間に心理的な絆が生じる。特にコーチの指導のおかげで成績が伸びたと感じれば、なおさらその絆は強くなる。これも臨場感空間が構築されている。
ただここで考えおいて欲しいのは、1つには本当にそのコーチのおかげなのかはわからないことでもある。他のコーチでもいいかもしれないし、標準的なコーチでも構わなかったかもしれない。たまたまハマっただけかもしれない。その意味で偶然性がまとわり付くのだ。
2つにはあくまでコーチングという制限された領域のことであり、コーチングを超えた領域、例えば親子関係などの生活に入り込めば、問題が生じる。
選手がコーチを絶対と考えてしまえば、生活までその関係が支配してしまうかもしれない。優秀なコーチであれば、特に日本であれば、選手に生活指導も行うことになる。結局コーチが選手の生活を支配する。その意味でコーチングを超えてしまい、生活所領域を支配するのだから、洗脳になる。あくまで限定された領域であるとの認識が重要である。なぜならコーチを絶対化してしまうことは、その時点でコーチと選手との間に支配と被支配の関係性が強化されてしまうことだからだ。
このような支配と被支配が固定されないよう、そしてあくまで限定的領域であれば、その臨場感空間はそこそこ真っ当になるだろう。
メディアという点で考えれば、例えば映画で。
映画で表現された映像は当然本物ではなく虚構である。しかしながら、その映像を見てリアリティを感じる。それは頭の中で虚構(つまり仮想空間)をリアルであるかのように変換できるわけだ。仮想空間に対して、現実空間(物理的空間)と同様の臨場感を感じることができる。それは仮想空間がどういうものかと学習して来たからだ。そして、映画はあくまで映画館の中での限定、人間が作り上げた仮想世界という限定を人間は認識している。
サイコスリラーの「SAW」を観て、心臓がドキドキしたり、恐怖に怯えたり、手に汗握ったりする。それは観客と映画との間に臨場感空間が作りだされ、脳内で虚構であるにも関わらず、リアリティを感じる仕掛けが構築(学習)されて来たからである。
そこでSNSである。今あげた映画の例のように、人間はメディアを媒介にして、そのメディアの中のモノや出来事、そして人間と臨場感を共有することができる。これはそのままSNSに当てはまる。
SNSに書き込まれた言葉に人間はハマる。例えば、このブログは少ないながらも誰かが読んでいる。そして読んでいただいた方が【いいね】【応援】【続き希望】【役だった】をクリックする。僕のブログの言葉に共有されるなにがしかを感じ(それは反感でもいい)、ブログの言葉との間に臨場感空間を作り上げている。これは同時に会った事もない僕との間に臨場感を感じたことになる。
そして僕の方はPVの数を見て、【いいね】以下の読者の反応を見て、その数を気にしてしまうことになる。これはそれら反応のあちら側に読者の人格を感じて、こちらも臨場感空間を作り上げる。高揚してしまだろう。
PVの数を上げたい、登録数を上げたいというのはこの臨場感空間にハマっている現象である。いつでもそれを気にして、スマホをいじる。Lineでリアクションがあっただろうかと気になり、四六時中いじっている。
どれも高揚を求めているのです。その意味で、高揚感という小さいけれども麻薬的な快楽が求めれる社会がSNS社会の一面だと言っていい。それは「楽しい」という一面は当然あるにしても、「楽しい」に依存すれば、何かを失うことに繋がる。