今の若い人に特に多いような印象を持つけれども、衝動を抑止することが苦手になっているのではないかと感じる。それは40歳代でさえそうだし、安易な犯罪もまたそんな気がする。
抑止の働きは、他者との共感能力、つまり他者の経験を自己の経験に置き換え理解すること、すなわち情緒にあると思われる。情緒とすると、自然の移り変わりを引き受ける能力にまで広がる。
通常こういう能力は大脳前頭葉にあると言われ、知情意の中心である。この部分の能力が欠けても、人間は生命を維持することはできる。ただ衝動的な生活だけ前景化してしまう。
だから他者との共感能力、自然の“心”を知る能力があれば、対象に関わるとき、単に対象とならないで、それらは自己でもある。そうでなければ、その意味を理解することなく、即座に行動に向かう。
例えば、試験があったとしよう。問題を理解しないで、即座に鉛筆をとり、解答する。これは衝動的な動作である。一問一答式の問題であれば、それで解けるし、よくできると評価され、自己満足や、彼らにとって彼らの位置づける他者から高い評価を受けられる。つまり両親とか、学校の先生とか。果ては社会がそうなっている。
いわゆるクイズに強いとは、このような能力の開発である。そして、社会はそれで高い評価をする。そして、社会全体がこういう方向に向かっていく。テレビに高学歴タレントが出て、知識を争っているように見えるが、それは知識というより、単なる情報とでも言ったほうがいい。情報を保存し、必要なときに取り出すだけなら、それはコンピュータの方が能力が高い。
だから、このようなクイズ形式の知識に強い人間は、コンピュータに近づいて行く。養老孟司さんが「コンピュータが人間に近づくのではなく、人間がコンピュータに近づいている」と言っていたのをどこかで見たことがあるが、そういうことだろう。ついでに「バカヤロ〜」と一言申していたのには笑わせてもらった。
小林秀雄が「美しい花がある。花の美しさと言うようなものは無い」と語るが、今回の文脈でいうと「花」と「美しさ」を分解情報化して、「花」というクイズを出すと、その答えは「美しさ」とでもなるのだろう。ここに「美しい花」が全く受容されていないことに、気づくことができるだろう。
「美しい花」をそのまま受容するには、情緒が発達していなければならない。
僕は“日本万歳教”では断じてないけれど、こういう受容の仕方が根底にあって、それを日本文化とでも名付けてきたはずではなかったかと思うのである。
若い人の短絡的な行動とクイズが流行するのは、どこかで繋がっているのではないかと疑っている。