そんなことよりもっと重要な絆とか結びつきのあり方があります。それは日常においては気づかず、見過ごしてしまうようなあり方をしています。そのあり方を哲学者ハイデガーに倣って、「大地」と名付けておきましょう。
「大地」は人間と不可思議な関係にあります。われわれ人間は「大地」に立ち、それを踏み、歩きます。「ちなみに「大地」はErdeですから地球でもあります。
「大地」がなければ、立つこともできないどころか、人間は存在することさえできないにもかかわらずです。「大地」こそが人間を支えています。大地」は、そういう不可視な存在なのです。僕たち人間が気づかないのに、人間や世界を支えていることを表現した概念です。
さてハイデガーの「大地」という概念は、芸術や近代科学を考える際に取り上げられる概念でもあります。芸術作品の力によって普段隠されている「大地」が現れるという時、それは芸術であるというわけです。
ハイデガーはゴッホで説明していますが、ここではピカソを取り上げましょう。
ピカソの絵を見て、僕たちは「なんだかヘンテコだなあ」と思います。あの通常キュビズムと言われる手法を駆使して、実は人間の真の姿を描いていると考えてみてください。ピカソには圧倒的な技術力、デッサン力があると言われていますが、その技術を使って、人間の真の姿はあのような「なんだかヘンテコ」なんです。
ピカソには人間はあのように見えているのです。ピカソにとって現実です。僕たち通俗的人間は社会的慣習の中で、ある観念を通して、人や世界を見ています。僕たちは現実を見ていないんです。しかし、人間の真の姿はあのような「なんだかヘンテコ」なのです。
ですから、ピカソの絵は普段隠されている「大地」、真の人間の姿が現れているわけです。ですから芸術家は「大地」を描く力を持った人なんです。だからピカソは天才なわけです。
僕自身の考えでは、「なんだかヘンテコ」のその下に、人間の真の姿、「大地」があるのではないかと考えていますが、そこはまた考えなければなりません。
芸術だと難しいので、近代科学技術を取り上げます。こちらの方がわかりやすいと思います。
僕たちは近代的技術を利用して、道路を舗装しています。僕たちは道路がアスファルトであることを当たり前にして生きています。ですから、土の上を歩くのを嫌がることさえあります。特に雨でも降った日には。
アスファルトという科学技術の下には「大地」があります。まあ土があるわけです。砂利や岩かもしれません。当たり前のことです。ところで、街を歩いている時、土に支えられているなど忘れています。それが人間の通俗的姿です。
普段その現実に気づくこともありません。アスファルト上を快適に歩いていたところで、アスファルトを支えているのは「大地」です。ですから、僕たちを、人類どころか動植物全てを支えているのは「大地」なんです。そのことを気づかずに、「安んじて」生きています。
ところが大地震が起きれば、「大地」が揺れます。アスファルトにヒビが入ったり、破壊されたりします。ハイデガーは科学技術の上に安住して生きている現代の人間を批判しています。「大地」を忘れていると。
夫婦の結びつきも「大地」のようなものです。不可視の構造です。普段は結びついているということすら、意識せず、しかしながら、結びつきは存在しているのです。夫婦の損得勘定、「経済生活」などというものは、実はこの「大地」としての結びつきの上で生じている程度の問題でしかないのです。「恋愛感情」も同様です。
実際の例が、さんまの「からくりTV」のあのおばあちゃんです。
(つづく)