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史跡ハンター 臥龍

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幕末史跡めぐり・其之十九~熊本編

2009年02月16日 | 幕末~明治史跡めぐり
2月16日(月)2/2
続きでーす。
13:20「熊本駅」に着きました。
それから13:57発の「鹿児島本線」に乗換えて、14:20『田原坂』に着きました。
今回の旅で何故MYチャリを持って行こうと考えたか?と言うと、この『田原坂』のためだったんです。
他の都市では大抵レンタサイクルが存在しますが、ここではバスもレンタサイクルもありません。
それでいて地図を見る限りでは歩いての史跡ハントはかなり困難だと判断し、レンタサイクルも各都市で借りれば折りたたみ自転車1台分くらいの出費になるしさ…
どうせ中国へは船で行くんだし、「北京」でも自転車を使うことがあるだろう…って事で折りたたみ自転車を買って、持ち運んでの旅にしたんです。

実は…「三角駅」から「熊本」までの切符しか買ってなかったんだけど、降りてから精算すればいい…って思ってたら思い切り無人駅でした…

『田原坂』は明治10年『西郷隆盛』率いる薩摩軍主力と熊本城救援に南下する政府軍(官軍)とが衝突、3月4日から20日まで合計10万の将兵が激闘し、死傷者3万5000名、そして遂に薩摩軍は敗退したのでした。
「日本最大、最後の内乱の地」なのです。
だからホントは幕末史跡じゃないんだけどね…
でも幕末に活躍した『西郷隆盛』に関する地なんで大目にみてくださいよ。

『田原坂(たばるざか)』と読みます。
ざっと『西南戦争』について説明しましょう。

「徳川幕府」解体後、「明治政府」は「廃藩置県」や「地租改正」を進め、封建から近代国家への歩みを進めていきました。
しかし「旧藩閥の対立や戦争」「官僚の汚職・職権乱用事件」などを抱え、新政府内は決して安定したものではありませんでした。
また新政府の政策により「特権」や「経済基盤」を失った「旧士族の不満」が徐々に高まっていった時期でもありました。
そのような状況のなか、明治6年に「参議・近衛都督」の職にあった陸軍大将『西郷隆盛』が、いわゆる『征韓論争』で『大久保利通』や『岩倉具視』に破れ「下野」します。
『西郷』の後を追うように、『桐野利秋』『篠原国幹』の両陸軍少将をはじめ『宮内大丞』『村田新八』ら政府の中枢にいた鹿児島県出身の官僚・軍人約600人も大挙して辞職し帰郷しました。
これを境に維新の原動力となった薩摩の藩閥は、『西郷隆盛』派と政府に残った『大久保利通』派に大きく分裂することになるのです。
帰郷した『桐野利秋』『篠原国幹』らを中心に「士族中心体制」が構築されつつあるなか、明治7年に『私学校』が開設されます。
藩政の骨格がそのまま『私学校』の組織に再編成され、役人の人事も中央に従わず「鹿児島」はさしずめ独立王国の観を呈していました。
「鹿児島」の処遇について長州藩の『木戸孝允』は薩閥の代表である『大久保』の責任を厳しく追及します。
『木戸』の突き上げにより『大久保』は、腹心であり同じく「鹿児島」出身の大警視『川路利良』らと善後策を図ります。
『川路』は12月に「鹿児島」出身者の23名を密偵として「鹿児島」に潜入させ、状況の視察と『私学校』関係者の離間工作を指示します。
政府はこれに呼応して、「鹿児島」にあった「陸軍省所管の武器弾薬」を秘密裏に持ち出そうとしました。
これを政府の露骨な挑発と受け取った急進派の『私学校』生徒は、『桐野』や『篠原』ら『私学校』幹部に無断で火薬庫を襲撃します。
さらに密偵の大量逮捕によって、真偽は不明ながらも「西郷暗殺計画」が流布されるに至っては『私学校』側も激昂します。
予期せぬ「火薬庫襲撃事件」に『西郷』は幹部を前に激怒したといいます。
しかしながら『私学校』幹部ほか挙兵決行の意思が強いのを知ると、ついに『西郷』も政府との決戦を決意したのです。

ご覧のように何も無い地です。

『田原坂公園→』と書かれた標識があった方へ進んで行きました。

14:50ごろ『田原坂公園』に着きました。

春は「つつじ」の名所として多くの人々が訪れるそうです。

これは「弾痕の家(鉄砲の弾の痕が残る土蔵)」です。

これは『田原坂資料館』なんですが、月曜は休館日でした…

これは「薩摩塚(古塚)」と『西南役戦没者慰霊之碑』です。
この慰霊碑は、明治10年(1877年)の西南の役で戦死された官軍6,923名、薩軍7,186名、殉難者29名の御霊の安らかならんことを願って建立したものです

電話ボックスの上に注目~

これは「美少年像」です。
雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ 田原坂
右手に血刀 左手に手綱
馬上ゆたかな 美少年

これは『田原坂崇烈碑』です。
明治13年に建立された「官軍の戦勝記念碑」です。

この「パノラマガーデン」には何があったんだろう?
先まで行きませんでした…

そして『一の坂』『二の坂』『三の坂』に行きましたが…

どうやら逆走してたようで『三の坂』から下って行くことになってしまいました。

これは『西南之役戦没者慰霊碑』です。

そして『二の坂』を通過し…

『一の坂』まで下りました。

ここから上がって行けば『一の坂』から順に『田原坂公園』に行けたのか…
『一の坂』『二の坂』『三の坂』と頂きまで「1.5Km」の曲がりくねった道が続いていますが、この道だけが唯一「大砲を曵いて通れる道幅」があり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は「熊本」へは進めませんでした。
また薩軍にとっては「生死を制する道」でもありました。
ともに戦略上の重要地であり、この平凡な坂道が激戦の舞台となったのです。
『熊本城』からこの『田原坂』までくり抜いた凹道となっており、それ故に前方の藪や左右の高所より銃撃を受け易く、攻め難い要地でした。

まだ帰りの電車まで40分ほど残ってたんで、『七本柿木台場薩軍墓地』に行きました。

明治10年3月初旬から 4月中旬まで続いた『田原坂』周辺の戦いで、「木留・七本原」付近で戦死した薩軍や熊本隊の兵士329名が埋葬されている『薩軍墓地』です。
そして15:45ごろ「田原坂駅」に戻り、15:59発の「鹿児島線」に乗りました。
16:15「熊本駅」に着いて、準備を整えて「熊本交通センター」に向かいました。
16:40「バスセンター」に着いたんで、もう少し早い時間のバスがあれば変更してもらおうと思ったんだけど、今の時間は元々買ってた18:20発しかありませんでした。
仕方なく、約1時間半バスを待ってました…
そして18:20「鹿児島」行きの高速バスは発車し、21:40「天文館」で降りました。
それから迷いながら予約したホテルに辿り着きました。
そしてホテル近くで夕飯を買って部屋で食べました。

さて明日は『西郷隆盛』『大久保利通』らを生んだ「鹿児島」に行くでごわす。
そいじゃ、また明日。



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